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■星の王子さまミュージアム閉園
 2023年3月31日、箱根の「星の王子さまミュージアム」が惜しまれつつ閉園となった。

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 サン・テグジュペリ生誕100年の記念事業の一環として、1999年6月29日に開園。当時世界で唯一の、「星の王子さま」とサン・テグジュペリをテーマにしたミュージアムだった。観光地の単なる客寄せ施設に終わらず、「星の王子さま」の背景を深く理解する上で必要な、サン・テグジュペリの生い立ちからその最後までの、人生への理解を深めることが出来る、とてもよくできたミュージアムだった。
 昨年10月、コロナ禍による来園者減少や建物の老朽化を理由に閉園が発表されて以降、連日多くのファンがやってきて賑わっていたとのことだけれど、残念ながら覆ることはなかった。自分も、ここが箱根で一番好きな観光施設だったので、最終日含め3月に2度行き、その世界を堪能し、記憶に刻んだ。膨大な数の貴重な展示資料が、今後どう処分されてしまうのか、非常に気になるところ。

■「星の王子さま」新訳ブーム
 ところで、行く前に読み直そうと、青空文庫で検索した。最初、「星の王子さま」で見つからず、「サン・テグジュペリ」で探したら「あのときの王子くん」というのだけあった。知らなかったので、関連作品かと思ってしまったけれど、正に同じ「Le Petit Prince」の新訳だった。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001265/files/46817_24670.html
 サン・テグジュペリ作品は、国によっては著作権が残ってるけれど、日本では敗戦による戦時加算を考慮しても2005年には権利失効しているので、誰が新訳で出版しても良いし、サン・テグジュペリ自筆のあのイラストも使える。(商標権の問題はあるけれど)
 権利失効した当時は新訳ラッシュがあって、十冊以上の新訳が出版されたとか。正に、パブリックドメイン万歳というか、著作権が切れることで文化の発展が促された好例になっている。「あのときの王子くん」も、こうして生まれた新訳の一つだった。

■「星の王子さま」って合ってるの?
 何故、「星の王子さま」ではなく「あのときの王子くん」なのか。その理由が「青空文庫版『あのときの王子くん』あとがき」に詳細に書かれていて、翻訳した大久保ゆうさんの本気さに感銘を受けてしまった。「この作品がファンタジーであるとは思いませんし、また『星の王子さま』という題名を冠されるような作品であるとは考えていません。」というのだ。

 言われてみると確かに、物語に出てくる例え等が生々しくて、ファンタジーとは違うように思えて来た。例えば以下。

「そのときは、わかんなかった! ことばよりも、してくれたことを、見なくちゃいけなかった。あの子は、いいにおいをさせて、ぼくをはれやかにしてくれた。ぼくはぜったいに、にげちゃいけなかった! へたなけいさんのうらにも、やさしさがあったのに。あの花は、あまのじゃくなだけなんだ! でもぼくはわかすぎたから、あいすることってなんなのか、わかんなかった。」

 自分の星(郷里)のバラの花(女性)との別れについて、こんなことを言う小さな王子って...精神年齢おいくつ?

 それに、たまたまどこかの星(B612)から来たけれど、星から来たことが重要という感じは無いので、「星」は特筆すべきポイントではないかもしれないとも思う。

 「王子」にしても、あくまで語り手である「ぼく」の主観からみた「小さな王子」であって、他の登場人物は、この子供を王子扱いしていない。王様には、家来扱いされている。客観的には、単に星々を旅する子供。「さま」付けすることに違和感があると言われると、確かに...と。

 では何故、原題に無いのに、わざわざ「星の」と邦題が付けられたのか。これまで考えたことも無かったが、要は、最初に翻訳した内藤氏のオリジナリティ溢れる二次創作だったということなのだろう。権利失効後の新訳ブームの時、内藤氏のご子息が、「せっかく新訳されるのですから、新しいタイトルを工夫してほしい。「新しき葡萄酒は新しき革袋へ」です。」と、各出版社に「星の王子さま」というタイトルを使わないでほしいと主張されたとか。それを知ってしまうと、もう安易に「星の王子さま」と呼べない。
 しかし、この邦題が余りにも定着しているせいで、機械翻訳ですら「Le Petit Prince」が「星の王子さま」と翻訳されてしまう。作品から離れて、純粋に言語として「Le Petit Prince」が正しく翻訳されないのは、ちょっと問題な気もする。(世界中で翻訳されているうち、「星の」的な題名で出版されている国は無いのではないか。英語圏では「The Little Prince」、中国では「小王子」。独特の題名なのは、ペルーの「kamachikuq Inkacha」で、意味は「インカの司令官」?...なんじゃそりゃ。)

■小さな王子のニュアンス
 そもそも最初は、しつこくうるさいガキんちょなのだ。「小さな王子」は、中国で一人っ子家庭で育ったわがままな子供を「小皇帝」と呼ぶのと、似たニュアンスかもしれない。少なくとも、童話的なキラキラ「王子さま」ではない。それが、会話を続けるうちに「ぼく」との間に絆が生まれ、かけがえのない友となる。その経緯を考慮すれば、「王子くん」は納得できる。
 更に、死にそうだった自分を救い上げてくれた、6年前のあのかけがえのない出会いの話だから、定冠詞「Le」を無視すべきじゃなくて、「小さな王子」では足りず、「あのときの王子くん」とした大久保訳に納得する。この呼び名、もっと広まれば良いのにと思う。

■蛇足
 児童書の体裁を意識しつつも、サン・テグジュペリは、当時ドイツ占領下のフランスで苦労していたユダヤ系の友人を励ますために、このガキんちょとの6年前の不思議な出会いを捧げた。子供のように自由な想像力を忘れて欲しくない大人に向けて。
 目に見えることが全てではなく、肝心なことは目に見えないということが物語の重要なポイントであることからすれば、王子くんが子供の姿だからというだけで、子供と決めつけるのも間違いだろう。
 砂漠に墜落する描写は、かなり比喩がある。大人社会で孤立し、孤独で心(エンジン)が壊れた「ぼく」が、サハラ砂漠のような誰の助けも得られない場所で、一人で立ち直らなければならないと言ってるようにも読める。その、「ぼく」の心の中の葛藤と、そこからの生還の物語が、目に見えないように描かれているとするなら、王子は「ぼく」自身でもある。
 「星の王子さま」と呼ぶのは、そういう解釈を妨げる気もして、モヤモヤしてしまうのだった。

 ま、自由に読めば良いので、「星の王子さま」と呼び続けたい人は全然構わないけど。

■ミュージアム公式Twitterで紹介されていた3Dデータ
展示ホール
https://l-prince.4dkankan.jp/spg/?m=KJ-eur-IHHn93a23e
園内
https://l-prince.4dkankan.jp/spg/?m=SS-tIQYvzaLf8
エントランス
https://l-prince.4dkankan.jp/smg/?m=SS-7Ue3p6Ywd5
チケット売り場
https://l-prince.4dkankan.jp/spg/?m=KJ-eur-7XPs9391ab
ショップ
https://l-prince.4dkankan.jp/spg/?m=KJ-eur-gyYg939446
レストラン
https://l-prince.4dkankan.jp/spg/?m=KJ-eur-esOB939cfb
カフェ
https://l-prince.4dkankan.jp/spg/?m=KJ-eur-pu0c9396ec
サン=テグジュペリ教会
https://l-prince.4dkankan.jp/spg/?m=KJ-eur-4uWZ939987

■その他ミュージアム写真
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職務発明の行方

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http://nettv.gov-online.go.jp/prg/prg8701.html
5分くらいからの、特許権の職務発明についての話は重要。研究者な知り合いがいたら、教えてあげよう。

経済界からの要望で政府は、
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS0700A_X00C13A6EB1000/
職務発明の権利を現在の発明者帰属から、法人(使用者)帰属に法改正する検討を始めるというのが前からニュースになっていた。成長戦略として、企業の経営上のリスクを軽減すると閣議決定も。
http://www.keidanren.or.jp/policy/2013/046.html
知的財産戦略本部が6月7日に発表した知的財産政策ビジョンは以下。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/titeki2/kettei/vision2013.pdf

その後の、いわゆる産業界側な面々の一方的な世論作りは、かなりドン引き。
『「職務発明は法人帰属にすべき」特許法第35条改正に向けた取り組み(上)
http://chizai.nikkeibp.co.jp/chizai/etc/20130807.html
「職務発明がその企業(法人)に帰属するのは、本質を考えれば当然のことなのです」
「『対価』ありきは、疑問! 発明者への褒賞はリスクをとっている企業が自身の裁量で決定すべきものです」

『特許法第35条の改正は産業競争力強化に必要な「制度のイノベーション」特許法第35条改正に向けた取り組み(下)
http://chizai.nikkeibp.co.jp/chizai/etc/20130809.html
「職務発明を法人帰属にしなければ本質的な問題は解決しません」
「職務発明がその企業(法人)に帰属するのは、本質を考えれば当然のことなのです」
 ↑
 重要なので2度言ってみたの?(苦笑)

要は、「相当の対価」も払わずに、特許を受ける権利や特許権(以下「特許を受ける権利等」とする。)を発明者個人から会社側が奪うのが、彼ら的には「本質を考えれば当然」というお話。

詳しいツッコミはあとでするが、まあこれだけ見ても、「日本て研究者に冷たい国なんだな」と分かってしまう残念さ。(もちろん、まともな会社さんも多いことは、言うまでもないが。)

で、まあ知財界隈では賛否両論のインパクトのある話題なのだけど、一般ウケは低調という感じだった。
http://webronza.asahi.com/science/2013061800002.html
みんな、自分は発明なんかしないと思ってるので、どうでもいいのだろう。むしろ、個人から権利を奪ってみんなで富を分配する方が、自分の利益と思っているとかだろうか。日本人は社会主義的な仕組みが好きなのかね。

この間、特許庁は
http://www.nikkei.com/article/DGXNASGC0300S_T00C13A7EE8000/
「企業の知的財産担当者や学者など約15人が参加し、特許を受ける権利の帰属や社員への対価について議論」してもらっていたそうだ。

設置された職務発明に関するワーキンググループは、8月から3回開催され、その経過を受けての中間報告が冒頭の動画でされているわけだ。そこで、動画中のパワポ画像からポイント3つを書き出してみる。
---
●ポイントその1
研究者のインセンティブ確保のためには、処遇、研究の自由度、予算など、研究開発環境を向上させることが決定的に重要!
●ポイントその2
・産業界と企業研究者のご意見:
 発明の源泉は「チームの強み」
・大学の研究者のご意見:
 発明の源泉はスーパー研究者などの「属人的な能力」
●ポイントその3
職務発明制度の見直しについて国民の理解を深めるためには、客観的なデータを示すなど丁寧な説明が必要
---

その1については、職務発明制度見直しの前提として「産業界が、発明者のインセンティブ向上のためどのような対策を講じるのかを具体的に示すことが必須」というのだが、企業側は、相当対価請求権の有無に関係なく、発明者のインセンティブを高めることは大事なんで、色々やりますよと言ってるそうだ。そんなの当たり前すぎて、声を大にして言うほどのことではないのだけど、わざわざ言わなければならないくらい、今まで蔑ろにしてきたのかもしれない。

その2いついては、立場の違いが明らかだ。これを念頭に、柔軟な制度設計の検討が必要というのだけど...

発明者個人の能力こそが発明に必要不可欠という、大学の研究者の意見は分かりやすい。が、産業界の意見というのはどうだろう。確かに、発明者をサポートするチームは重要だ。しかし、それは属人的な能力を否定する根拠になっていない。要は、プロデュースしたのは企業側だと言いたいのかもしれないが、それを強調し過ぎてスーパー研究者はいなくてもOKと言っているようなレベルまで研究者をボロクソに言っていては、両者の溝が埋まるとは思えない。

でもってその3は、なんと約1.4万人の研究者に対し何がインセンティブか、約2千社の企業に対し職務発明制度の運用実態はどうなのか、特許庁にアンケート調査するように指示したそうな。
今のところ企業側は、対価請求権があることで対価についての予測可能性が低くなり、そんな不確実な制度では海外の研究拠点で研究者が集まらないだの、みんな海外に行ってしまうだのと主張。それに対して研究者側は、職務発明が法人帰属になったら、優秀な研究者はみんな海外に逃げてしまうと主張。互いの言い分が真逆で平行線なので、網羅的客観的な調査を行って、実際のところを判断しようというわけだ。

そりゃ凄い。本当に客観的な調査ができるなら、是非やって欲しい。いつの間にかロビー活動で議員立法されちゃうとかじゃなくて、当事者の意見を生かした客観的論理的な判断ができるなら、これは素晴らしいことだ。(そういうことができるなら、昨年の著作権法の改悪なんかも再調査して、元に戻してもらいたいのだけど...)

問題提起した産業界からすれば、自分たちの言い分だけ聞かれるはずが、まさか客観的に調査されるなんて、寝耳に水だろう。今後は、この調査の行方を冷静に見守り、報道がどこかの影響力で変な記事で世論を誘導したりしないか注視したい。

ということで以下は、ポイントその2について考えるために、冒頭で後回しにするとした日経BP知財の2つの記事から、企業側の論理について理解してみたい。(以後、日経BP知財の2つの記事からの引用は、それぞれ(上)(下)で示します。)

■研究者の扱い
(上)「イノベーションは個人ではなく、組織が実行するものです。企業はイノベーションを起こすためヒトやモノに投資します。そこから生まれてくる職務発明は従業者個人に帰属するのではなく、企業に帰属するのが本来の筋であると考えています。」
(上)「企業はヒトとモノに対して投資します。事業活動で企業に帰属しないものは何かと考えると、特許の権利以外ありません。事業活動の中から生まれてくるもの、例えば製品やサービスなどのアイディアはすべて企業に帰属します。研究所に投資して、研究テーマに投資して、研究者に投資して、そこから生まれてきた特許の権利だけがなぜか企業に帰属しません。企業は従業者(発明者)から権利を買い取らなければなりません。こうした構造そのものがとても不思議です。」

どうも視点が一方的過ぎると感じる。研究者の関わり方、企業の開発環境や規模、プロジェクトの置かれた状況など、発明と言ってもその成立過程は様々なパターンがあるはずだが、そういう違いを考慮していない感じだ。

(上)「そもそも発明者には他の社員と同じようにきちんと給与が支払われているのです。なぜ、発明者に、他の社員の仕事の結果とは異なる特別な手当てをしなければいけないのかについて合理的な説明がつきません。」
(上)「イノベーションの観点からすると研究者以外の従業員も重要です。なぜ研究者だけが法律で守られるのか、そこが不自然に思われます。」

少なくとも彼らの認識している企業では、研究者というものを何も特別視していなくて、事務職や営業職と同じなんだと言いたいらしい。

(上)「日本企業の研究者は雇用が守られ、リスクはほとんどありません。それにもかかわらず、特許に基づく製品利益の何%かの対価請求権を持っています。それはビジネスの常識から考えるとおかしなことです。」
(上)「リスクをとっているのは企業です。発明者はリスクをとっていません。終身雇用的制度の中で研究者は研究しています。」

余程お気楽な仕事と思われているのだろうか。
終身雇用でリスクがないとか、研究開発部門のある日本の企業って、潰れず、リストラもしない良い会社ばかりなんですか?
へー知らなかった(棒読み)

ベンチャーや中小の研究者は、ガン無視って感じですかね。
まあとにかく、彼らが研究者のことを本当に下に見ているということが分かります。
それがビジネスの常識なら、まずは常識を改めるところから始めてはいかがでしょうか。

(上)「企業にはいろいろな部署があり、特許技術を事業化して成功を収める上ではそこで働く人たちにも大きな貢献があります。」
(上)「企業活動は研究、企画、製造、営業など役割分担の中でチームを組んで進められます。そうした中で特許法第35条は企業活動の大きな混乱要因となります。従業員に対する不公平感を生じさせます。」

不平等だから研究者を優遇しないとおっしゃる。

(下)「例えば、生産ラインで車を作っている労働者が完成した車の所有権を主張できるでしょうか。完成した車は労働者のものではありません。労働者は労働を提供し、給与を得ています。労働の中で生産された車は当然企業の所有になります。労働の中で生まれたものが、車なのか職務発明なのかの違いだけです。」

うわぁ...こうゆう比較が適当だと思ってるわけですね。

(下)「職務発明の対価は、企業の中で公表されていません。なぜなら、従業員が非常に不平等を感じるからです。企業の中である事業が成功すると、それに最も貢献した人が誰であるかは関係者であれば分かります。ところが、特許法第35条はそんなことは忖度しません。」

35条5項は相当の対価の額について、「その発明により使用者等が受けるべき利益の額、その発明に関連して使用者等が行う負担、貢献及び従業者等の処遇その他の事情を考慮して定めなければならない。」と規定しているので、発明者以外の貢献は使用者等の貢献に含めて算出すれば良いかと。関係者なら貢献具合が分かるというなら、簡単でしょう。

(下)「発明者以外の従業員からすれば、なぜ発明者だけが特別の対価を得られるのかという気持ちになり、不平等感を持つのです。多くの企業で少しずつこうした不平等感を持つグループが生まれているのではないかと思います。」

なんか、仲間の成功を妬む人だらけな、嫌な雰囲気の会社が多いということですね。
で、妬む人を基準に、平等に利益を分配すべきって感じですか。
そういう企業さんは、まさか、非正規雇用を低賃金で使ったりはしてないですよね。
同一労働同一賃金なんて、当たり前になってますか?
まさか、都合の良い時だけ、平等とか持ち出してこないで下さいよ。

(下)「収支に増減がある中で、企業は安定的な雇用を維持するために努力し続けています。それが企業の存在意義でもあります。特許法第35条でこうしたことが捻じ曲げられるのが問題です。」

失敗もあるのに、成功した場合に対価を吐き出したら、企業は成り立たないと言いたいのですね。でも、35条は、全て吐き出せとは言ってないですよね。そんなことしたら会社が潰れちゃうことくらい、一般企業に勤務経験のない裁判官だって、理解できると思いますよ。それに、そういう心配をしているなら、そういうことを特に考慮すべき事項として、35条5項に文言として入れてもらえば良いのではないですかね。相当の対価の算定に反映されるように。「捻じ曲げられる」とか、単なる被害妄想だと思いますよ。

(下)「「対価」ではなく、成果が上がれば「報奨」という形で評価していくことが適切であると考えます。」

ははぁーん。飼い犬が芸をしたらご褒美をあげる感じですかね。
飼い犬が飼い主に何か要求する権利を持ってるのが、しゃくなんですね。
でも、成果にみあった報奨を払っていないから、裁判になってるって可能性はないのですか?

(下)「今の法律で多くの企業が悩んでいるということは、法律そのものを変える必要があるのではないかと考えました。」

企業の都合で法律は変わるべきだと...

(下)「欧米のように成熟した社会で企業の営みの本質が理解されているような国では、おかしなことは起こらないでしょう。契約社会である米国であれば契約で処理されます。仮に訴訟が起こっても、コモンローに基づき妥当な判断が下されるでしょう。ところが、日本は成文法の国です。予定調和的に処理されていたものが否定され、文言通りに解釈されると企業にとっては大きな問題となってしまいます。」

日本は未成熟社会で、成文法はクソだと言っているのですね。
でも、日本だって、判例の蓄積によって判断が妥当になっていくことはありますよ。
判例が反映されて法改正されたりもするのですから。今の35条だって(ry

(下)「海外の特許制度との比較は難しい面があります。特許法の条文だけで比較するのではなく、労働環境や従業員の報酬制度などを含めて比較することが必要となります。」

これは同意しますね。
労働法とか含めた視点が必要かもしれません。
終身雇用ばかりの会社とは限らないので、研究職の雇用の流動化も踏まえて、契約社会に馴染まない日本人がどうやったら保護されるか、考えるべきでしょう。

(下)「日本の企業の場合は、研究者を総合職として雇用し、研究職以外に配属する可能性があります。研究者は経営企画部門や営業部門に配属されることもあります。」

研究職に就きたいのに、配属先が営業とか、本当に悲しいですね。
まあ、会社都合だから、仕方ないですよね。でも、その会社都合を理由に、研究職の待遇も下げたいとか、面白い論理構造ですね。

(下)「同じ仲間である研究者を我々はリスペクトしています。もちろん、お金を欲しいですかと聞かれれば、それは欲しいと答えるに決まっています。ではお金のためだけに働くかといえば、実はそうでもありません。」

あはは。リスペクトすればOKって、違法にアニメをネットにアップする中学生と同じですね。それに、リスペクトで満足できる人が、本当にリスペクトされてると実感してるなら、そもそも裁判なんて起こさないでしょうね。
大体、上で今まで言ってることをどう解釈しても、リスペクトのリの字も感じられませんけどね。


ということで、我が国の産業界における研究者の扱いが、大体分かったでしょうか。
(重ねて言うけど、こんな酷い会社ばかりじゃない。)

■ついでにイチロー
企業側の論理では、
(下)「野球ではイチローみたいなスーパースターがいます。しかし、イチローもチームの一員としてチームプレーの中でスーパースターとなっています。1人でプレーが成立しているわけではないのです。」と言われている。

対して、iPS細胞でノーベル賞を受賞した山中伸弥教授が、青色LED訴訟で多額の対価を得て話題になった中村修二氏に触れつつ、研究者の金儲けについて語っている場面ではこうだ。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/NBD/20121009/237845/
---
山中:中村先生は勇気を持って、当然の権利を主張したと考えています。その彼が、今は米国で教壇に立っている。日本人としては寂しいことです。すごい技術を開発した研究者に、日本の若い人たちが学び、後に続くことができたら、どれだけ素晴らしいことか。
 ただ、多額の報酬を得ることへのアレルギーは、少しずつ緩和されているかもしれません。イチローなどの野球選手は、何十億円稼いでも叩かれなくなりました。サッカー選手も同じです。
---

産業界は、スーパースターのイチローの成功はチームのお陰と言いたいのは分かったけど、彼が「相当の対価」を十分に得ていることを無視している。おまけに、海外に移籍していることも。
発明者の権利を企業が奪う論理に使われてしまったイチローからすれば、自分の努力を否定されたようなものではないだろうか。

イチローが結果を残しているのは、どう考えてもイチロー個人の「属人的な能力」が優れているからでしょ。


■忘れてはならない雇用状況の変化
終身雇用・年功序列賃金を前提とした古い時代には、会社に長く居続けることにインセンティブがあったのだから、上手く回っていたのだろう。会社と争う研究者は稀で当然。ところが世の中は、研究職の雇用も流動化している。

http://okwave.jp/qa/q3615269.html
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2008/1113/212676.htm

もちろん、研究職と研究補助職をごっちゃにしてはならないが、チームの強みが発明の源泉というなら、チームみんながもっと優遇されて然るべきだろう。

スーパー研究者な山中教授のiPS細胞研究所の職員の9割が非正規雇用だったりして、そういう研究者自身が、最もその状況を危惧していたりする。
http://blogos.com/article/48270/


こんなのもある。

「平成24年度科学技術の振興に関する年次報告」(平成25年版科学技術白書)
第4章 基礎研究及び人材育成の強化、
 第2節 科学技術を担う人材の育成
  2 独創的で優れた研究者の養成
  (2)研究者のキャリアパスの整備
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpaa201301/detail/1338261.htm
「優れた研究者を養成するためには、若手研究者のポストの確保とともに、そのキャリアパスの整備等を進めていく必要がある。その際、研究者が多様な研究環境で経験を積み、人的ネットワークや研究者としての視野を広げるためにも、研究者の流動性向上を図ることが重要である。一方、流動性向上の取組が、若手研究者の意欲を失わせている面もあると指摘されており、研究者にとって、安定的でありながら、一定の流動性を確保されるようなキャリアパスの整備を進める。」

遡れば「平成14年度 科学技術の振興に関する年次報告」もこうだ。
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbb200301/hpbb200301_2_014.html


こんな時代に、職務発明は法人帰属で当たり前とか、対価請求権を認めないとなったら、研究職の使い捨てを促進するだけだ。まして、これから我らが政府は、非正規のまま10年雇用できるように法改正を検討しているのでしょう?

もちろん、流動的な雇用に見あう対価をセットで提示して試行錯誤している企業も、とっくにいる。
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDD060GX_W2A100C1TJ2000/

チームによって発明がもたらされると思っている方々は、非正規雇用の安価な研究開発チームを効率よく回転させようとか、まさか考えてないですよね?

個々の会社毎に内部事情は異なるだろうから、特許庁のアンケートでは是非、そういう労働環境の良い会社と悪い会社を比較できるような調査もして欲しいところだけど、まあ難しいだろうか。


つまるところ、研究職における雇用の流動化に対し、それを補うべく相当の対価の議論もリンクさせなければ、いつになってもバランスはとれないのではないか。研究者という仕事を、発明しても権利は対価なしに会社に取られ、いつ雇用契約が終わってしまうか分からないような、夢のない仕事にしてはいけない。

最近、なんでもかんでも非正規雇用の問題に辿り着いてしまう。


■そもそも
「相当の対価」が注目されだしたのは、平成15年4月22日の最高裁判決(オリンパス事件)がきっかけだ。その判決後に経済界は、対価についての予測可能性が低くなったと、実は今回と同じ文句を言っていた。

勘違いしてはいけないのだけど、現行法でも職務発明は、使用者側が通常実施権を無償でゲットできる(特許法35条1項)。これを法定通常実施権という。つまり、対価なしでも、企業側はその発明を利用できる。でも、それ以上に権利を独占したいから、対価が問題になる。

普通の使用者は独占するために、社内で定める職務発明規定やら勤務規則によって、特許を受ける権利等を発明者から予約承継している。原始的には、特許を受ける権利等は発明者たる従業者に帰属するのだけど、予め社内ルールを定めておいて、発明したら権利を会社が承継するよと、(一方的に)決めてるわけだ。

オリンパス事件でも、特許法35条2項の反対解釈として、「使用者等は、職務発明について特許を受ける権利等を使用者等に承継させる意思を従業者等が有しているか否かにかかわりなく、使用者等があらかじめ定める勤務規則その他の定め(以下「勤務規則等」という。)において、特許を受ける権利等が使用者等に承継される旨の条項を設けておくことができる」と言われており、社員の意思なんて関係なく一方的でOKなのは、裁判所のお墨付きなわけだ。

(なので実は、特許を受ける権利等の法人帰属問題は、あんまり重要じゃない。発明した従業者が嫌でも、使用者側は特許を受ける権利等を承継できる。結局、問題は対価だけだったりする。だけど、そもそも対価なんて払いたくないから、原始的に権利を法人帰属にしたいと企業側が文句を言っているというのは、上の方で散々引用したところだ。)

ただし上記最判は、職務規則等で特許を受ける権利等の「承継について対価を支払う旨及び対価の額、支払時期等を定めることも妨げられることがない」としつつ、そこで規定された額が「相当の対価」の額に満たないなら、著作権法35条3項の規定に基づいて、「その不足する額に相当する対価の支払を求めることができる」と言った。

当時の特許法35条4項によれば、相当の対価の額は、「その発明により使用者等が受けるべき利益の額及びその発明がされるについて使用者等が貢献した程度を考慮して定めなければならない。」とされていた。これらを考慮して計算した額より、職務規則等で一方的に定めた額が少なければ、使用者側は差額を払わなければならなくなったわけだ。しかも、裁判沙汰になれば額を決めるのは裁判所であり、相当の対価を算定する裁量は、使用者にない。

経済界は、これらの状況について、対価の予測可能性が低くなったと言い出したわけだ。

追い討ちをかけたのが平成16年1月30日の東京地裁判決、青色LED事件だ。200億円支払えという結果に、企業の法務・知財部門は、腰が抜けたという感じだろうか。
(とは言っても、結局は控訴審段階で和解が成立した。その際、使用者の貢献度を95%として、相当の対価についての和解金は6億857万円を基本として算定されるべきとの和解勧告がされ、これを含む8億4000万円が支払われた。つまり、企業側の主張は概ね認められた。以後、使用者の貢献度を95%と踏襲する判例が多いのではないか。)

そこで、使用者の予測可能性を高め、同時に発明者たる従業者の研究開発意欲を喚起するためにできたのが、平成16年改正職務発明制度(平成17年4月1日施行)、つまり現行の特許法35条だったりする。
詳しくは、以下のリンク先の下の方に、改正後の35条4項、5項の説明があるのでどうぞ。
http://www.jpo.go.jp/seido/shokumu/shokumu.htm

で、舌の根も乾かぬうちにというか、まだ今でも改正前の旧35条の裁判だらけで、やっと下級審で現行の35条の事件が出てきたかくらいなのに、そもそも対価なんて払いたくないという産業界が、また同じ文句を言い出した...というのが、今回の安倍政権への働きかけだったりする。

ブラック(ry


■海外との比較
知的財産政策ビジョンや、動画のパワポにも出てくるが、海外ではどうなっているのか紹介されてたので、それを参考に書き出してみる。

●使用者(法人)帰属、対価請求権なしの国:スイス  ←我が国の産業界が望んでいるもの
 従業者による発明の権利は、雇用契約によって使用者に与えられる。
 従業者に対する追加的な補償の規定はない。
●使用者(法人)帰属、対価請求権ありの国:イギリス、フランス
 職務発明の権利は使用者に帰属するが、対価請求権によってバランスを図る。
●発明者帰属、対価は契約に委ねる国:アメリカ
 職務発明規定は存在せず、特許を受ける権利は常に発明者に帰属。
 その従業者から使用者への特許を受ける権利の承継は、契約などに委ねる。
 給与の中に対価が含まれる雇用契約が一般的。
●発明者帰属、対価請求権ありの国:日本、韓国、ドイツ
 職務発明に係る権利を従業者に原始的に帰属させる。
 ドイツは、従業者に対する補償金の算出基準の詳細なガイドラインが存在。


つまり、産業界の意見が通ると、我が国はスイス状態になる。

ヒヤッホーイ!なんか楽しそう。
クララが立った的な、新たな一歩を踏み出したいのですね!!!
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って、なぜスイス...orz

対価請求権があることによって、対価の予見可能性が低いことが問題だと言うなら、ドイツのように算出基準のガイドラインを作って欲しいというなら納得できる。ところが何故か、発明者から特許を受ける権利等を奪うことで、対価請求権そのものをなくしてしまおうって、論理飛躍し過ぎでしょ。


来年の臨時国会か、再来年の通常国会あたりで、法改正の話が出てくるらしい。
研究者の皆さんは、特許庁からアンケート依頼がきたら、ここに書いたような状況をよ~く踏まえて、慎重に、熟慮して、回答して欲しい。


■蛇足
ところで気になったのが、著作権法の職務著作との違いだ。

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15条1項:職務上作成する著作物の著作者
法人その他使用者(以下この条において「法人等」という。)の発意に基づきその法人等の業務に従事する者が職務上作成する著作物(プログラムの著作物を除く。)で、その法人等が自己の著作の名義の下に公表するものの著作者は、その作成の時における契約、勤務規則その他に別段の定めがない限り、その法人等とする。
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職務著作は、「使用者の発意」「使用者の業務に従事する者」「職務上作成されたもの」「使用者の名義」「契約、勤務規則その他に別段の定め」という要件で、自然人でない法人を著作者とすることを認めている。これは、著作者人格権まで法人が得るので、実際に創作したはずの個人には何も権利が発生しない。

対して特許法35条1項の職務発明の定義はこうだ。
「従業者、法人の役員、国家公務員又は地方公務員(以下「従業者等」という。)がその性質上当該使用者等の業務範囲に属し、かつ、その発明をするに至つた行為がその使用者等における従業者等の現在又は過去の職務に属する発明」

つまり要件は、「従業者等の発明」で、「使用者等の業務範囲に属し」かつ「従業者等の現在又は過去の職務に属する」ことしかない。職務著作と比べて要件が甘く、範囲が広い。「使用者の発意」(の解釈はかなりルーズだが)を要する職務著作が、過去の職務に属するものを含み辛いのと異なる。

判例でも、かなり簡単に職務発明と認めた後で、貢献度の違いを「相当の対価」で計ることになっている。青色LED事件の東京地裁中間判決でも、職務発明ではないとして原告が主張した理由としての、別の研究をしろとの社長の業務命令に反して発明したという事情は、相当の対価算定に際して会社の貢献度の認定をするのに考慮すべき事情とされた。

ところが産業界は、この対価を廃止したいというのであり、上でいくつも引用した通り、会社の貢献度が絶対的に高いという大前提に立っている。すると、簡単に職務発明と認めた後には、最早その貢献度の差を争う手段がなくなってしまう。個別具体的な事案毎に貢献度を考慮すべきなのに、それは会社の裁量に任せろというなら、せめてその前段階で、そもそも職務発明かどうかの基準を、より厳格に規定すべきだろう。

もちろん企業側は、何でも全部職務発明にしたがるだろうが、社長の業務命令に反して発明した場合、そんな社員を会社がまともに優遇するとは限らない。少なくとも、終身雇用でリスクがないのだから全部会社の権利だとか、会社のリソースを少しでも使えば職務発明で会社の権利になってしまうというのは、そこまで社員を支配させて良いのだろうかと思ってしまう。勤務時間外に、個人的に過去の職務に属する発明をしたとして、当然に会社の権利になってしまうと言われて納得できる研究者だらけなのだろうか?


ということで、もしも職務発明は法人帰属というなら、その前に発明がどういう状況下でなされたものかの違いによって、職務発明かどうかを柔軟に判断できるようにすべきだと思う。


ついでに、映画の著作物に関する著作権法16条、29条1項も、雇用形態や貢献度の違いの処理の参考にもなるかもしれない。

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16条:映画の著作物の著作者
映画の著作物の著作者は、その映画の著作物において翻案され、又は複製された小説、脚本、音楽その他の著作物の著作者を除き、制作、監督、演出、撮影、美術等を担当してその映画の著作物の全体的形成に創作的に寄与した者とする。ただし、前条の規定の適用がある場合は、この限りでない。
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29条1項:映画の著作物の著作権の帰属
映画の著作物(第十五条第一項、次項又は第三項の規定の適用を受けるものを除く。)の著作権は、その著作者が映画製作者に対し当該映画の著作物の製作に参加することを約束しているときは、当該映画製作者に帰属する。
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まあ何にしても、研究開発のスタイルは、産業界が自己正当化のために主張するようなステレオタイプなものばかりではないはずだ。職務発明の見直しは、薙刀を振るうような大変革というより、きめ細かいメニューの提供による柔軟化を目指した方が良い気がする。

■感銘を受けたシンポジウム
先日、シンポジウム「日本はTPPをどう交渉すべきか ~「死後70年」「非親告罪化」は文化を豊かに、経済を強靭にするのか?」の中継を見て、非常に感銘を受けた。
http://thinktppip.jp/?p=128
http://togetter.com/li/526246

もちろん、TPPにおける著作権問題は認識していたし、非常にマズイとも感じていたけれど、TPPそのものに反対する立場ではなく(選挙の時は反対してた議員だらけの自民党が賛成するのは、民主主義的な「手続の正義」に反してクソったれだと思っているので反対だが)、今までなかなか意見表明できなかった。しかし、このシンポジウムの説得力は、著作権問題については自分も何か言わなければという気にさせてくれた。

中でも、特に感銘を受けたのが、青空文庫呼びかけ人の富田氏が紹介された、芥川龍之介の「後世」からの引用だ。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/33202_12224.html
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 時々私は廿年の後、或は五十年の後、或は更に百年の後、私の存在さへ知らない時代が来ると云ふ事を想像する。その時私の作品集は、堆(うづだか)い埃に埋もれて、神田あたりの古本屋の棚の隅に、空しく読者を待つてゐる事であらう。いや、事によつたらどこかの図書館に、たつた一冊残つた儘、無残な紙魚(しみ)の餌となつて、文字さへ読めないやうに破れ果てゝゐるかも知れない。しかし――
 私はしかしと思ふ。
 しかし誰かゞ偶然私の作品集を見つけ出して、その中の短い一篇を、或は其一篇の中の何行かを読むと云ふ事がないであらうか。更に虫の好い望みを云へば、その一篇なり何行かなりが、私の知らない未来の読者に、多少にもせよ美しい夢を見せるといふ事がないであらうか。
 私は知己を百代の後に待たうとしてゐるものではない。だから私はかう云ふ私の想像が、如何に私の信ずる所と矛盾してゐるかも承知してゐる。
 けれども私は猶想像する。落莫たる百代の後に当つて、私の作品集を手にすべき一人の読者のある事を。さうしてその読者の心の前へ、朧げなりとも浮び上る私の蜃気楼のある事を。
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果たしてこの芥川が、TPPで著作権保護期間が死後70年に延長され、しかも著作権侵害が非親告罪化されるかもしれないという未来を知ったら、どう思うだろうか。

著作権が切れてパブリックドメインとなり、青空文庫の方々の努力で無償公開されている結果として、未来の読者に作品がダウンロードされているという現在に対し、「俺の作品なんだから勝手に読むな。金払え。」と言うだろうか。(もちろん、芥川の場合は死後70年も既に経過しているので、今回のTPPの影響はないが。)

そんなに過剰に著作権が強化されてしまったら、自分や作品が忘れ去られてしまうだろうとは思っても、そこまでして自分の作品を死後も守りたいと思って創作活動をするクリエイターがいるとは、どうにも想像しがたい。

■オーファン・ワークス
ほとんどの著作物は、死後50年も待たずに商業的価値を喪失していることがシンポジウムでも明らかにされていたが、商業的価値がなくなってもパブリックドメインにならないとなると、たとえそれを後世に伝えたいと思った第三者が現れても、容易に手が出せない。更に、誰に許諾を得れば良いのかすら分からない、オーファン・ワークスになっている場合も大半なので、権利者の意思に関係なく非親告罪として逮捕されてしまうかもしれないというなら、社会的文化的に価値がある作品を見つけたとしても、それを世間に紹介することが著しく困難なわけだ。

著作者死後70年の保護期間を終えるまで、商業的価値を喪失した著作物が語り継がれる可能性がほとんどないとなると、人類の文化的遺産を喪失させるのが著作権法ということになる。「文化の発展に寄与することを目的とする」著作権法1条にも反する。自分としては、我が国の著作権法が保護する、死後50年でも長すぎるくらいだと思っている。

もともと、著作権保護期間の延長は、ミッキーマウス保護法と揶揄されるくらい悪名が高い(アンサイクロペディアのコレは最高にブラックw)のだが、既に70年に延長している国々でも悪影響が問題視され、実は短縮すべきという議論も始まっている。我が国は、映画の著作物は公表後70年(著作権法54条)に延長しているが、他の著作物の保護期間を延長しようとする動きは、長い議論を経て辛うじて封じられてきた。それが、国内のそうした議論を無視して、TPPだからと簡単に著作権法を改変して良いものではない。

■大御所がパブリックドメインになる時
シンポジウムでは、漫画界では松本零士氏など大御所中心に延長論者が多く、なかなか抵抗できないと赤松氏が弁明していたが、過去の作品を守りたい側の論理と、古典の活用を含めた自由な文化の発展を望む側の論理は、大概において衝突する。(既得権益保護 v.s. 規制緩和による新規参入促進というと分かりやすいか。)松本氏は、手塚作品の著作権が切れてもいいのか等と言うそうだが、手塚の「罪と罰」も「ファウスト」も、ドストエフスキーやゲーテの著作権が残っていたら、果たして描かれていただろうか。パブリックドメインだったから、漫画にできたのではないのか。

個人的には、手塚作品がパブリックドメインになる時、日本では「手塚祭り」になるだろうと想像している。パロディ、続編、リメイクと、手塚作品の二次的著作物による大きな手塚ブームがやってくるのではないかと。
もちろん、田中圭一氏などの手塚作品のパロディは今でも人気だし、それを許容する著作権者の度量も素晴らしいと思っているが、ある種の配慮が必要なくなった時、どんな自由な創作文化が花開くことか...
http://twitpic.com/cowdza
いや、こういうのばかりじゃなくてw

■我が国特有の二次的著作物の文化
シンポジウムでも指摘されていたが、非親告罪になると、コミケがいつでも起訴・処罰可能となるので、表現の幅は大きく狭まるだろう。萎縮効果だ。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1304/17/news060.html
しかし、他国には我が国のコミケのような規模の、二次的著作物が扱われる市場も文化も存在しない。TPP交渉において、我が国特有の文化的事情というものを、単なる経済問題ではないのだと主張してもらわなければならない。俳句の季語だって、最初に考えた人が権利を主張していたら、他人が使えず、季語として定着しなかっただろうとも指摘されていたが、クールジャパンを支える創作活動は、二次的著作物に寛容な文化がその裾野を支えている。

正式な許諾はないけれどグレーゾーンを著作者が黙認するという、著作者による著作物のコントロールを国が奪い、勝手に逮捕するというのは、本当に著作者が望むことなのか。二次的著作物を黙認する「黙認マーク」を提唱した赤松氏は、8月からの漫画の新連載で早速「黙認マーク」を使いたいそうで、クリエイティブコモンズなり文化庁なりのお墨付きが欲しいと発言していた。今まで「あ・うんの呼吸」で機能していた文化の土壌を守るのに、非親告罪化が問題になるのは日本くらいというのは、TPP交渉において非常に厳しいところだ。

■70年という期間を想像してみる
今から70年前といえば、まだ第二次世界大戦も終わっていない。もちろん、現行法でパブリックドメインになっている作品は、保護期間が70年に延長されたからと権利は復活しない。しかし、著作者死後70年の保護期間に延長すべきという考え方は、例えば戦前のような昔に亡くなった人の著作物ですら、まだパブリックドメインにするなと言っているわけだ。仮に、戦前戦後のような過去の混乱期に、日本人が何を考え、どう表現していたか、商業的価値は低そうだが、我が国の社会・文化・風俗を知るうえでは重要なオーファン・ワークスがあったとして、それを活用しようとすると逮捕されるかもしれない...そんな社会にしようというのが、著作者死後70年への保護期間延長と、非親告罪化だ。もっと言うなら、今から70年後の未来の日本人にとって、東日本大震災や原発問題についての現在の日本人の活発な議論は、教訓として重要な遺産だろう。著作権を強めたり絶対視すると、彼らに我々の経験を承継することが困難になる。

もちろん既に「国立国会図書館東日本大震災アーカイブ」は、複数の震災関連アーカイブを横断検索できる。
http://kn.ndl.go.jp/
ここで、「そこ、つっこみ処ですから」と検索すれば、ハーバードのエドウィン・O・ライシャワー日本研究所が構築している「2011年東日本大震災デジタルアーカイブ」に複製された、
http://jdarchive.org/ja/home
うちのブログからのエントリーがいくつか出てくる。
自分としては、アーカイブの一部として複製されたことに何の異議もないし、そもそもクリエイティブコモンズライセンスとして許諾の表示をしているので問題ない。

しかし、フェアユースが認められない我が国(日本版フェアユースが骨抜きにされたことはご存知の通り)では、こういったアーカイブ構築にも必ず著作権処理が壁となってきた。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1112/28/news053_2.html
フェアユースが認められるアメリカから、70年への延長と非親告罪化を求められて、フェアユースを否定したまま我が国がこれを受け入れるという最悪の事態だけは、絶対に避けなければならない。TPP交渉に当たり、我が国の著作権分野交渉担当者がどこまで著作権問題に精通しているか、非常に心配だ。

■相続問題
そもそも、法人著作になるような映画ならともかく、個人が著作者な大半の著作物について、相続の問題を無視して死後の著作権は議論できない。

著作権の相続問題は、100年も昔から裁判のネタだ。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00843849&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

著作者が死ぬということは、それを相続する者が著作権を得るだけでなく、当然に相続税が発生する。では、保護期間を延長するのは当然という人は、不労所得の恩恵を受ける遺族等が相続税もその分多く払うべきだと、当然に考えているのだろうか?

国税庁の財産評価基本通達、第7章「無体財産権」第4節「著作権、出版権及び著作隣接権」には、以下のように規定している。
http://www.nta.go.jp/shiraberu/zeiho-kaishaku/tsutatsu/kihon/sisan/hyoka/07/01.htm#a-148

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(著作権の評価)
148 著作権の価額は、著作者の別に一括して次の算式によって計算した金額によって評価する。ただし、個々の著作物に係る著作権について評価する場合には、その著作権ごとに次の算式によって計算した金額によって評価する。(昭47直資3-16・平11課評2-12外改正)
 年平均印税収入の額×0.5×評価倍率
 上の算式中の「年平均印税収入の額」等は、次による。
(1) 年平均印税収入の額
 課税時期の属する年の前年以前3年間の印税収入の額の年平均額とする。ただし、個々の著作物に係る著作権について評価する場合には、その著作物に係る課税時期の属する年の前年以前3年間の印税収入の額の年平均額とする。
(2) 評価倍率
 課税時期後における各年の印税収入の額が「年平均印税収入の額」であるものとして、著作物に関し精通している者の意見等を基として推算したその印税収入期間に応ずる基準年利率による複利年金現価率とする。
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つまり、どんな人気の時に死ぬかと、謎の評価倍率によって、著作権の相続税は定まる。
が、正直、この計算はよく分からない(苦笑)

人気絶頂で死ぬと、相続税が大変なことになるのだろう。
逆に、死ぬまで世間に評価されないと楽だ。
死後65年くらいでリバイバルブームが来ると、保護期間70年の世界では、著作者の生前の苦労を何も知らない孫やひ孫の世代辺りの相続人が、大儲けできるかもしれない。

もちろん、著作権保護期間延長が、相続税の計算に直接影響を与えるものではないだろうが、延長することに価値があるという主張が認められるなら、相続税にも反映されなければおかしい。
「著作物に関し精通している者の意見」を基に推算される、未発生の将来の印税収入期間を前提に相続税が算定されるなら、いっそのこと「印税収入期間」=「著作権保護期間」とすべきだ。ここをダブルスタンダードにする必要はない。

つまり、死後70年保護されるべきというなら、謎の「著作物に関し精通している者の意見」に関係なく、印税収入期間も70年として、相続税を算定すべきだろう。もちろん、相続人の立場からすれば、バカ言うなと思うだろう。未発生で確実に得られるかどうかも分からない不労所得を前提に、相続税なんぞ払えるかと。しかし、相続税で計算していない期間まで、死後のブームで相続人が大きな不労所得を得られることがあるというのは、第三者からすれば不公平な税制ということになる。

逆に言えば、我が国が保護期間を70年にしてこなかったのは、「著作物に関し精通している者」の公の議論の結果であり、相続税は「著作物に関し精通している者の意見」を基に算定するというなら、著作権保護期間を延長しないという公の議論の結果も尊重されるべきだ。

こういう話をすると今度は、著作権保護期間は、金の問題ではないのだとかいう声が聞こえてきそうだ。著作者人格権として重要なんだとか。

なら、いずれにしても、経済連携協定たるTPPで、経済問題として交渉すべきトピックではない。少なくとも、TPP交渉における他の経済分野を守るためのバーターとして、著作権分野を明け渡すような愚行だけはしてはいけない。

■意見表示
以上のように、この問題については色々と言いたいところだけど、TPP政府対策本部は、現時点でTPPはパブリックコメントの対象ではないと断言し、7月17日17時締め切りで、団体等からの意見提出を受け付けている。
http://www.cas.go.jp/jp/tpp/tppinfo.html#setsumeikai
6月26日の日本農業新聞には、「意見は業界団体以外の個人などからも受け付ける。ただ、個人などの意見については寄せられる意見の数や内容によって、どう扱うか調整する予定。」とも掲載されたそうなので、個人の意見がどう扱われるかは分からないが、全く無視されるわけではないらしい。もう交渉は間に合わないからと、我が国の文化の土壌を政府がアメリカに明け渡すのを傍観せずに、問題意識を持った人は、個人でも、団体でも、積極的に意見をTPP政府対策本部へ提出すべきだろう。

ちなみに自分は、内閣府の国政モニターなので、この問題を6月分の提案とした。例によって400字に収めなければならないので、色々と省略せざるを得なかったが、できる抵抗はしておきたい。
http://monitor.gov-online.go.jp/report/kokusei201306/detail.php?id=37005
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TPPで著作権保護期間延長と非親告罪化を要求されますが、これらは長年の国内議論の結果、社会的文化的に多大な弊害があるので法制化が回避されてきた問題です。大半の著作物は、著作者死後50年を待たずに商業価値を喪失するため、70年では、文化的価値はあるのにパブリックドメインでないがために社会から存在すら忘れ去られます。オーファン・ワークス増加も問題で、既に70年の国々でも短縮議論が始まっております。また非親告罪化は、クールジャパンを根底から支える二次創作を主体としたコミケを崩壊させますが、これは日本特有の文化的背景であるため、TPP交渉過程で我が国が特に主張し抵抗する必要があります。多くの創作活動は、他人の作品を真似るところから始まるので、著作者の意図と関係なく罰せられては日本のコンテンツ文化が衰退します。間違っても、何かをTPP例外とするために、著作権分野をバーターで明け渡さないでください。
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http://www.adobe.com/jp/aboutadobe/pressroom/pressreleases/20130108_cs2_downloads.html
アドビが、CS2のアクティベーション(ライセンス認証)サーバーを停止したこととの引換えに、正規ユーザー向けに、アクティベーションサーバーを介在しないで起動できるインストーラーとシリアルを公開したそうで、当然色々と祭り状態になった。
http://matome.naver.jp/odai/2135760297416235101
http://room402.biz/adobe-cs2-is-not-free/

そもそも、ネット経由でアクティベーションするシステムが導入された当時から、将来いつまでサーバーが維持されるのか、利用し続けられるのか、自分のような社内のライセンス管理をする立場だった人間は気が気でなかったわけだけど、これがその答えというわけだ。

「技術的な理由」としているが、つまりはコスト削減だろ?という感じがしないでもない。

アドビは昔から、正規ユーザーのライセンス管理がおろそかで、自分の昔のmixi日記なんぞ読み返すと、涙なしにアドビとの格闘の日々を語れない(嘘)のだが、ユーザー管理部門のスリム化・適正化というのが、アドビの変革の歴史なのではないかと思っている。

手紙でシリアルコードを送付させて、人力でユーザー登録処理していた時代、アドビのサポートは正規ユーザー情報を管理しないともノタマイ、アドビのユーザー情報のデータベースが壊れていても、その修正に膨大な時間と労力をユーザーに負担させた。そういう意味では、アクティベーションサーバーによる自動化、その後のサブスクリプションやらクラウドの導入というのは、ユーザー管理の効率化の歴史であり、ユーザー側のライセンス管理の負担軽減の歴史でもあった。しかし、逆に言うと、そのために無駄なバージョンアップがなされ、大した機能向上もないのに新バージョンを買わせる口実にもされた。
(あんまりこの辺を語りだすと愚痴だらけになるので、やめておくけれど(苦笑))

さて巷では、こんな大胆なことをやって大丈夫なのかと、不正利用が増えるのではないかと、アドビを心配する声もあろうが、アドビがこういうことをやらかすのは、実は今回が初めてではない。アドビは昔から、不正使用を誘発することを躊躇しない会社なのだ。例えば、昔のMac版のPhotoshop等では、イントラネット上でアドビ製品が起動している数をチェックしていて、5ライセンス購入者のシリアルでは、同時に5台でしかソフトを起動できない制限があったが、Win版では無制限に何台でも起動できた。また、昔のAfterEffectsでは、ドングルというハードウェアキーをPCに接続し、これがなければプロ版の起動ができない制限があったが、あるバージョンからこれが廃止され、プロ版がノーチェックでいくらでも起動できてしまうようにされた。社内でライセンス管理する立場としては、「ドングル買わないと起動できないのですから買いましょう」と、必要数のライセンス購入を促す社内の説得材料がなくなり、困ったものだ(苦笑)

しかし、不正使用によってアドビの売上げが下がるなんてことはなく、いつも確実にシェアを拡大し、売上げは右肩上がり。これが、プログラムの著作物たるソフトウェアの面白いところだ。

もちろん、今回の本来の目的はこうだ。
「これらの製品は、7年以上前にリリースされたものであり、現在多くの方に利用されている主要なオペレーティングシステムでは動作いたしません。 しかしながら、旧来のオペレーティングシステム上で継続してCS2製品およびAcrobat 7を利用されるお客様に引き続きご利用いただけるよう、CS2およびAcrobat 7の正規ライセンスを所有されているお客様を対象として、アクティベーションサーバーを介在しないソフトウェアをアドビ システムズより直接提供させて頂いています。」
今更、CS2を使ってる正規ユーザーからは、不満の声は出ないだろう。

しかし、喉の奥に何か引っかかる説明が続く。
「弊社が不特定多数の皆様に対して無償でソフトウェアを提供することが目的ではございません。本措置は既存の正規ライセンスを所有されているお客様の利便性を損なわないための顧客支援の一環の措置であり、正規ライセンスを所有されていないお客様のご利用はライセンス違反となり得る旨、ご理解の上ご利用いただけますようお願い申し上げます。」

>ライセンス違反となり得る旨
「なり得る」とは、「なる」ではない。
なぜ、正規ライセンスを所有せずに利用する場合を、ライセンス違反と断言しないのだろうか。

>ご理解の上ご利用いただけますよう
ご理解すれば、ご利用いただいても構わないのですか?

「正規ライセンスを所有されていないお客様は、ご利用いただけません。」とは、何故書かないのか考えてみよう(笑)


■そもそもダウンロードして良いのか
例えば、パッケージ製品を購入するユーザーは、パッケージに印刷された利用規約を読み、その内容を了承してパッケージを開封することで、権利者と契約が成立するとされている。シュリンクラップ契約というが、これ自体、民法上は色々と問題がある。

今回アドビは、当初アナウンスが不適切で、無償で公開したかの誤解が広がったわけだが、アナウンスをし直した後に至っても、ライセンス条項や利用規約のようなものの表示は一切なしにダウンロードが可能なまま。というか、アクセスが集中してメンテナンスした後、ついにはAdobeIDすら不要で、誰でもダウンロードできるようにされた。言ってることと、やってることが逆だ。
不特定多数がダウンロードしたことが推測されるが、それが具体的に何に違反をするのか、その過程で表示していないままだ。

もし仮にアドビが、ダウンロード者をIPアドレスから特定し、正規ユーザーでなければ著作権侵害として訴えるとか、正規料金の3倍払え(これは不正利用者と訴訟になった場合のアドビのスタンス。損害額を正規小売価格の2倍とし、これを払った上に、更に新規に正規ライセンスを買わせる。もっとも、日本の裁判所は2倍の損害額を認めないけれど。)と請求するような対応をしたとしたら、どうだろう?

ワンクリック詐欺と、どう違うのだろうか。(もちろん違うがw)

そもそも世の中には、フリーソフトウェアやシェアウェアも存在するのであり、正規ライセンスを所有していない状態でソフトウェアをダウンロードすることが、即違法となるような慣習はインターネットに存在しない。
著作権法的には、私的使用のための複製はセーフであり、プログラムの著作物は、違法ダウンロード刑事罰化の対象でもないし、なにより今回、アドビという権利者本人が自動公衆送信している。

また上記の通り、ダウンロードの画面上に許諾条件の表示もないし、同意ボタンもなく、申込と承諾の過程が皆無なわけで、オンクリック契約、クリックラップ契約の欠片もないように見える。

つまるところ、正規ユーザーのみがダウンロードできるように制限をかけるくらい、アドビには造作も無いのに敢えてやらず、ダウンロード前にライセンス条項等を容易に認識できるステップも踏ませず、無駄に太っ腹にいくらでもワンクリックでソフトウェアがダウンロードができる状態をあえて作出している以上、正規ライセンス所有者でない者がダウンロードすることまでは、目的外だが想定済みということなのだろう。だから、「ご利用」がライセンス違反となり得るという書き方になっているわけだ。

何故こんなノーガード戦法を選択したのか、理由は色々あるだろうが、そもそも制限しても無意味だからだろう。
仮に、正規ユーザーにのみダウンロードを許したところで、アクティベーションサーバーを経由せずに起動できる共通のシリアルとセットで配布したが最後、足がつかないので、正規ユーザーがそれをコピーして第三者に渡してしまうことを防げない。どうせ防げないなら、無駄に制限をかけても意味がない。むしろ、ダウンロードを自由にすれば、不正コピーを売買して利益を貪る輩を防げるくらいの話だ。

ということで、アドビの目的ではないにしても、ダウンロードを正規ライセンス所有者に限定する気は、毛頭ないのだろう。要は、結果として最新版の売上げが減少しなければ、今更売れない旧バージョンがいくら使われても、実質的な損害はない。それよりも、正規ユーザーがアクティベーションできないことの方が問題なのだから。


■ライセンス違反となり得るのか
では、どの段階でライセンス違反が成立し得るのか。インストールするのに、どんな契約を交わしているのだろうか。

アドビ製品を買ったことがなくてライセンス条項を知らない人や、当初の祭り状態につられて、無償と信じてインストールしてみた人もいるだろう。
そういう人に対しては元より、そうでない人に対しても、ライセンス違反と言うには、その前に前提となるライセンス契約が存在しなければならない。
ソレがないなら、「ご利用いただけません」と言えない。

さて...ソレはないのだろうか?


インストール時にクリックして承諾させられる、アドビのソフトウェア使用許諾契約書というのがあるので、読んでみれば分かる。

実はこっちもノーガードだw
確実に1台にはインストールが許される規定っぷり。
ワイルドだろ~?(苦笑)

何故ならこの契約書は、ライセンス契約の存在が使用許諾の前提条件になっていない。それどころか、「お客様が本ソフトウェアをAdobeまたはその公認ライセンシーから取得し、本契約の条件に従う場合には、Adobeはお客様に対し、下記に定めるように、マニュアルに記載されている方法および用途に本ソフトウェアを使用するための非独占的なライセンスを許諾します。」という規定がある。

つまり、今回アドビがダウンロードページで主張しているような、正規ライセンスを所有している人に使用を許すのではなく、その逆で、インストール時に使用許諾条件を承諾した人に、アドビが正規ライセンスを許諾しなければならない建て付けの契約になっている。そして、本来あったはずのアクティベーション(ライセンス認証)というのは、この使用許諾契約で許可された以外のコンピュータにソフトウェアがコピーされるのを防止する仕組みだったのだ。

唯一の例外は、「お客様は、本契約の全部または一部を補足し、またはこれに代替する別個の契約書(例えば、ボリューム・ライセンス契約)を直接Adobeと締結している場合があります。」という記述。
昔、CLPというボリューム・ライセンス契約をアドビと交わしたことがあるが、あれは確かに、インストールの前にライセンスが存在した。しかしもちろん、そんな契約をするのは法人くらいであって、個人では聞いたことがない。
アドビは、単発のライセンスの場合と、ボリューム・ライセンスの場合とで、ライセンスの発生するタイミングがインストール開始と前後し得るのだ。ややこしぃ...

なので、この使用許諾契約が有効である限りは、今回配布されているプログラムのインストール開始前は、ライセンスを有しないユーザーこそ一般的であって、それがライセンス違反になるという論理には無理があるんでないかい?

言いたいことはよく分かるけど、法務部ちゃんと仕事してるの?


■どうしてこうなった
思うに、今回のような手法で製品版をアドビ自身が配布してしまう事態は、この使用許諾契約書は想定していないのだ。だから、アドビ自身から取得(今回の場合はダウンロード)さえしていれば、それは不正ユーザーではないという大前提で、用法を守るならライセンスを許諾してくれちゃう。しかも、「本契約は、権限を有するAdobeの役員が署名した文書による場合のみ変更できます」とされているので、今回のダウンロードページに何と書いてあっても、それがAdobe役員の署名した文書によるものでなければ、意味がない。契約条件の変更権限を有しないアドビ社員が、ダウンロードページにどんな条件を呈示したところで、使用許諾契約書の内容は変更できない。

ということで、アドビの社員さん、ちゃんと御社の契約書の内容理解してください。
契約書の想定外の配布方法を取りながら、使用を制限したいなら、ちゃんと御社の役員に署名してもらって、使用許諾契約書を改定してください。
現状、私的使用目的なら、著作権法的にも、使用許諾契約書的にも、誰でも使えちゃうとも解釈可能なわけで...え?だから「ご理解の上ご利用いただけますようお願い申し上げます。」なわけ?(嘘)

おや、誰か来たようだ...


■補足
今回は、そういう解釈もあるんでないかい?ってことで書いてるだけなので、これを根拠にアドビ様に立てついたりしてはいけませぬ。ならぬことはならぬものです。

■Kick-Heart
前回のクラウドファンディング続きってわけではないけれど、最近これにちょこっとお金を出した話を。
http://www.kickstarter.com/projects/production-ig/masaaki-yuasas-kick-heart
IG湯浅監督の、約10分の短編アニメプロジェクト、Kick-Heartだ。

今日見たら、丁度10万ドルを超えていた。
でも、あと残り2週間で、もう5万ドルって達成できるのかな。ちょっと心配。
(10月30日までに15万ドルに達しないと、課金が発生しないシステムなので、正確にはまだ出資したとも言えない。)

湯浅監督といえば、マインド・ゲームが衝撃的で、劇場公開時も会社の同僚と一緒に観に行ったし、DVDも買って持っている。凄いのだけど、あまり広く一般に売れるというより、マニアじゃないと凄さが分からないタイプの監督かもしれない。(まあ、マインド・ゲームはロビン西氏の原作漫画も衝撃的に凄いのだけど。)

そんな監督が、クラウドファンディングで新作の資金を集めているというのだから、応援したくもなる。
http://animeanime.jp/article/2012/10/02/11614.html
http://animestyle.jp/news/2012/10/05/2663/

でも、それだけじゃない。

■ダウンロード
金額によって特典に差があるけれど、自分は15ドルを選んだ。まあ、今は節約生活してるからというのもあるけれど、高額な選択肢は、Blu-rayとかメディアももらえることになっていて、それが嫌だったからだ。

これが9月までなら、コピー防止されたメディアからのリッピングも私的使用なら合法だったから、プラスチックの円盤にもリッピング元として意味があった。でも、この10月から、著作権法の改悪でその手のリッピングが違法となったので、リッピングしちゃいけないプラスチックの円盤をもらっても、狭い部屋が保管場所として一層狭くなるだけになってしまった。

まあ、こんな話をしても、普段からDVD等を大量に買っていない、年に数えるほどしか有体物でコンテンツを買わない人には意味が理解できないかもしれないので、ちょっと説明したい。

自分は、一番DVDを買っていた頃は、年100枚以上買っていたヘビーユーザーで、全部で何枚保有するのかは、途中で数えるのをやめた過去がある。ま、エクセルで一覧作って管理はしているのだけど、全部はカウントしきれていない。(一覧作って管理する前は、忘れて同じ作品のDVDをダブって買ってしまったりしていた(自爆))
そして、当然の結果として、実家の自室は、それらDVDのパッケージが山積されている。東日本大震災の時は、それが倒壊して大変だった(苦笑)

さて。

今回のリッピング違法化が正しいと思っている人の中で、自分で購入した大量のコンテンツのパッケージの山から、ある作品を見たいと思って捜索を開始し、何時間も探し続けるという徒労を経験したことがある人は、一体どれほどいるだろうか?

お金がジャブジャブあれば、メディア保管庫でも作ってレンタルビデオ店のように整然と並べておけるだろうが、そうはいかない。うちは、大量のマンガはかなり整然と並べているが、DVDはBOXなど箱の形が様々なので、雑然と積み重ねてしまっており、後になって、奥に入ってしまった作品を引っ張り出すのは容易でない。30分の作品だろうと、2時間の作品だろうと、尺に関係なく場所を取るし、久しぶりに見たいと思った作品を探す苦労は、並大抵ではない。

箱からディスクのみ取り出して、別途ファイリングもしたりしているけれど、一冊に100枚くらい入るいくつものフォルダから、目的の1枚を探すのは、やっぱり大変なのだ。結局、観たい作品をいつでも骨を折らずに観られるようにするには、買った作品を片っ端からリッピングして、大容量なHDDに私的使用目的で整理して複製しておくというのが、9月までの至って合理的な問題解決方法だった。決して、複製したデータをネットに送信可能化しようとか、他人に渡そうなどというつもりは一切なく、純粋に私的使用のために、リッピング行為は合理的に必要だった。

別にプラスチックの円盤や無駄に豪華なパッケージを集めたいのではなく、純粋に観たい作品を観る方法としてDVDを買ってきただけなので、DVDなしに自由に鑑賞できるなら、そもそもDVDなんて欲しくない。(そういう意味では、収集マニアではないので、観賞用と保管用を別に買うなんてマニアの気持ちは理解できないが、レンタルしてリッピングするほど子供でもない。正直、25年くらい前は、著作権の存在すら知らず、悪意なしにレンタルビデオをダビングしていたが(遠い目)、大人になってから可能な限りDVD等で買い直した。)

だから、リッピングできず、観たい時に観るのが困難になるなら、もうこれ以上、邪魔になる円盤など増やしたくない。以前は軽い気持ちでDVDを購入していたが、今後は、どうしても買わなければならない特段の事情でもなければ、原則として買わないと決めた。しかし、ネットのオンデマンドサービスに満足しているわけでもないので、困ったなぁとは思っていた。(なんか、観たいのに買わないって本末転倒気味だけど、観たい時に自由に観られない前提なら、もう諦めるのを基本にしようと。つまり、ヘビーユーザーを意識的に引退することにしたわけだ。やっと普通の人に?)

そういうところだったので、クラウドファンディングで湯浅監督の作品を支援できるというだけでなく、ダウンロードで本編がデータでもらえるということが、とても素晴らしいと感じたわけだ。

しかも、Kick-Heartのクラウドファンディングのページには、以下のような説明もあった。

Our digital downloads will be DRM free and our Blu-ray and DVD's will be region free.

分かってらっしゃる!

ダウンロードしたら、タブレット端末にコピーして、寝転がりながら鑑賞させてもらうかもしれない。

ということで、Kick-Heartのクラウドファンディングは、デジタル著作権管理をしないファイルを配布してしまうという点でも、是非とも成功して欲しいと思ったわけだ。

■デジャブ
クラウドファンディングにお金を出すということは、それまで一般消費者にしかなれなかった人が、スポンサーになれるということだ。なんか、OVAの創世記に似たような話が...と思ったら、以下のインタビューを聞きなおして納得。

石川氏が25年前を振り返り、今はマーケットを意識するとエッジの効いた作品が作れないという話をしている。マスには受けないけど、たまには作りたい作品を作ることも必要で、そのためにクラウドファンディングは有用だと考えたわけだ。

1980年代、似たような理由でできた市場が、OVAだった。
その辺については、以前触れたので、興味のある人は以下をどうぞ。
http://maruko.to/2010/11/post-96.html

マス向けの作品と、エッジの効いた作りたい作品の、両方が必要という話も、とてもよく分かる。すると、DRM freeな本編データがダウンロードできるという方法も、マス向けには適用する気はないのかもしれない。けれど、リッピングが違法化されてしまった現在、マス向けでも何かしらのユーザー目線での対応は、検討して欲しいなぁ...

■蛇足
丁度、リッピング違法化について、マイナビがアンケートをやって公開した。
「DVDリッピングの違法化でDVDの売上は変わる? 「伸びると思う」は4.6%」
http://news.mynavi.jp/articles/2012/10/13/dvd/

そりゃそうだ、という結果。
このアンケート、自分も答えた記憶があるなと思ってたら、掲載されてる「年間100枚以上DVDを購入していたが、リッピングの違法化はまるで犯罪者扱いされているようで、怒りを感じる」という反対意見が、正に自分が答えたものだった(笑)

まあ、「法の支配」を尊重する我が国なので、きっと「法治主義」ではないので、悪法には従う必要がないという人もいるだろうけど...(ry

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1206/05/news069.html
この後もMIAUは、違法ダウンロード刑事罰化に反対するロビイングを、諦めずに続けている。
http://miau.jp/1339159103.phtml
消費税や原発問題に隠れてしまっているけれど、これもとっても重要な問題。著作権侵害コンテンツのダウンロードが違法になって、まだ2年ちょいで、世間にそれが浸透すらしてないのに、もう「2年以下の懲役または200万円以下の罰金」という刑事罰を加えようという法改正が迫っている。現状だと、国民の多くが犯罪者として処罰対象にされてしまう。特に、この行為が違法行為だと認識すらしていない中高生が罪を負うことになることも、MIAUは問題視しているようだ。

そもそも、この手の著作権侵害は、アップロード者を処罰するのが本筋で、現在の法律で十分に対処できる。例えば、違法にアップロードされたコンテンツをダウンロードした100人を逮捕するより、アップロードした1人を逮捕することは、遥かに容易で実効性が高い。しかし、この法改正をロビイングしている音楽業界などの権利者団体は、何故かダウンロードした側をしきりに処罰したがっている。刑事罰化を訴える議員の発言などからすると、国民への啓蒙のためとか言っているようだが、だとすると大問題だ。これから啓蒙しなければならないような、国民に規範意識のない行為に刑事罰を設けるという意味であり、法律を小学校の道徳の時間の教科書か何かと勘違いしている。道徳的にそうあるべきなら、それに反する多くの国民に刑事罰を課しても良いとなると、刑事罰とは、一般的でない特定の価値観を持つ者が、その価値観を世間に広めるために使える道具ということになる。それが、専門の学者の意見や、憲法の掲げる理想に則ったものならまだしも、2010年の法改正の時点でそれは認められなかったのだから、質が悪い。当時、それまで違法でなかった行為を違法とするにあたり、文化庁の審議会の分科会等でも多くの議論が重ねられた。そして、著作権法の専門家を交えた議論で、元々著作権法は私的目的の複製は処罰対象ではないので、私的目的のダウンロードを違法としても、罰則は付けないことにされた。この議論の結果、自らの意見が通らなかった特定の利益団体が、専門家のコンセンサスを得るのを諦め、専門家でない議員にロビイングして法改正を果たそうというのが、今回の動きだ。

http://togetter.com/li/317556
しかも、政府提出の閣法に、自公が修正案を提出する形で、ろくに議論せずにこっそり刑事罰を盛り込んでしまおうというのだから、姑息過ぎる。まともに議論したら、反対意見に論破されると自覚しているのかもしれない。

「2年以下の懲役または200万円以下の罰金」とは、モラル向上のために路上喫煙禁止条例でたばこのポイ捨てに過料を課すのとは訳が違う。何より、厳しい刑事罰を設ければ国民のモラルが向上できるという発想自体、犯罪社会学の分野では当然でもない。

大体、憲法で保障された「通信の秘密」を侵害せずにダウンロード者をどうやって捕捉するのかよく分からないが、仮にサーバのログなどからIPアドレスでダウンロード者を総当たりでしょっ引けるとか考えているなら、恐ろしいことだ。何故なら、違法コンテンツと知りながらダウンロードしたかどうかの故意は、とりあえず嫌疑をかけて自白させるか、とりあえずPCを差し押さえるなどしてHDDを分析し、故意があったと言えるくらいの情況証拠を集めるしかない。
社会人であれば、嫌疑を晴らすまでに職を失うだろう。中高生なら、酷いイジメにあうだろう。もちろん政治家は、議員活動を停止する...かどうかは知らないが(苦笑)

家族の共有PCだったりしたら、一家丸ごと共謀共同正犯で逮捕されたりして(^^;;

とにかく、これが原発問題や消費税問題に隠れ、またはその引き換えに通ってしまいそうなことが、本当に最悪だと思っている。著作権法とは、その国の文化の発展の仕組みを支える法律であり、何かとバーターで改悪して構わないようなものではない。
衆議院で通ってしまうと、改悪賛成の野党が多数派な参議院ではどうにもならない。
今、そういう危機的な段階にある。

>追記:6/16
「DVDリッピング違法化+私的違法ダウンロード刑罰化法案、衆議院で可決」
http://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/20120615_540420.html

残念な結果だ。

http://hakubun.jp/2012/06/%E8%91%97%E4%BD%9C%E6%A8%A9%E6%B3%95%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E8%B3%AA%E7%96%91%E3%81%99%E3%82%8B/

冗談みたいだが、こんな浅い理解で、専門家が散々議論してきた事実を無視して、特定の利益団体の意見で、我が国の文化発展を支える法律が改悪されるのだ。こんな罰則ができたところで、音楽CDの売り上げが回復しないことなど、一般的な常識があれば想像できるはずなのだが。

おまけに、この自民党議員によれば

>明らかに故意犯だけが対象であり、その立証は、捜査当局が個々のパソコンを押収して無理矢理行うものではない。

とのことだが、明らかな故意犯なのか、捜査機関がどうやって判別するのか、是非とも教えて欲しいものだ。我が国の捜査機関は、パソコンを押収せずに、誰かの頭の中を透視でもして故意を立証する方法でも開発したのだろうか?

基礎的な知識や、簡単な想像力のない大人が、この国の創造力をどんどん奪っていく様を目の当たりにするのは、本当に悲しいことだ。

レコードやCDという、音楽の著作物の劣化コピーを売る商売が、金銭的魅力を失いつつある現在、音楽ビジネスは複製できないライブという本来の姿に回帰しているように思える。そもそも、劣化コピーが高額で売れるのが当然だと思ってきたのが、根本的な間違いだったのではないかとも、自分などは最近考えてしまうのだが...

アルジャジーラは、以前からCCライセンスで番組を提供している。
http://creativecommons.jp/features/2009/10/701/

CC BY3.0なので、アルジャジーラの名前をクレジットすれば、複製・頒布、二次的著作物を作ってもOK。

大した不利益もないのに著作権を主張すれば、報道機関として、世界の人々の知る権利に資することができないと、自らの存在意義を理解しているのだろう。見てもらってナンボだ。

ライブでストリーミングもしており、最近のエジプト情勢など、見始めると目が離せなくなるから困る。
http://english.aljazeera.net/watch_now/

恐らく今、世界中のエジプト人は、アルジャジーラのライブストリーミングに釘付けだろう。

日本の放送事業者のように、在外邦人がネット経由で番組を見ることを裁判で訴えるような、無益な権利濫用は、彼らからしたら馬鹿に見えるかもしれない。(娯楽番組も含まれるから、日本の場合をアルジャジーラと一緒にするなと言いたい人もいるだろうが、上記ライブを見ていれば分かるが、アルジャジーラも報道番組ばかりではない。)

「番組のネット配信にルールを 」(日本経済新聞 電子版 2011/1/31付)
http://www.nikkei.com/news/editorial/article/g=96958A96889DE0E0E7E4E5EAEBE2E1E3E2E3E0E2E3E38297EAE2E2E2;n=96948D819A938D96E38D8D8D8D8D
<--
日本は地域ごとに放送局があり、広告の入った番組がどこでも見られるようになれば営業にも支障を来す。
-->

いやいや、それ、もっともらしい説明だけど、訴えた放送事業者には、NHKが含まれてますから(笑)

NHKに受信料払う側の意思としては、NHKがこの訴えを提起したこと自体、受け入れ難い。


ところが、
http://wiredvision.jp/news/201101/2011013121.html
-->
収益の多くを海外メディアからの「映像使用料」が占め、特にNHKが払う金額が一番大きく、同局の大きな助けとなっているとされる(NHK-BSが世界のニュースのひとつとして枠を設けて日本語同時翻訳放送を行なっている)。
<--

回りまわって、NHKがアルジャジーラの最大の援助者というのが、なんとも皮肉だ。
BS1が連日伝える、アルジャジーラの翻訳報道は、確かに価値がある。このこと自体は、NHKナイス!

しかし、公共放送たるNHKの中の人は、CCライセンスやライブストリーミングと、ビジネスをどう線引きすべきなのか、アルジャジーラから学ぶべき点が大きいのではないか?

http://english.aljazeera.net/

「1対1通信のロケフリは「自動公衆送信装置」になりうるか 「まねきTV」最高裁判決の内容」
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1101/19/news076.html

「録画番組の海外転送、レコーダーが業者管理下なら著作権侵害に 最高裁、審理差し戻し」
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1101/20/news088.html

最高裁が、残念な差戻し判決を立て続けに出してしまった。
著作権法の世界では有名な、まねきTVとロクラク事件だ。

このブログでも、かつて取り上げた。
http://maruko.to/2009/02/post-6.html最後のところに
>最高裁...ひっくり返さないでね(^^;;
と書いてるが、虚しい。
まさか、訂正せねばならない事態が訪れるとは(涙)

しかし、まねきTVなんて、まだ続いてたのかというのがそもそも驚き。
仮処分で完敗したのに、本案で逆転て、それ自体興味深い。
5年かかって、しかもまだこれから差戻しの原審が待っている。
スピードを求められるインターネットビジネスの世界で、我が国の著作権法がどれほど機能不全を起こしているのか、よくよく再確認できたというところか。

前置きはこれくらいにして、では2つ続けて、長いつっこみを入れようと思う。
ただし、基本的に批判的に。


■■最判平成23年1月18日 まねきTV■■
http://kanz.jp/hanrei/detail.html?idx=6708

送信可能化権侵害の判決理由
-->
5 しかしながら,原審の上記判断は是認することができない。その理由は,次のとおりである。
(1) 送信可能化権侵害について
ア 送信可能化とは,公衆の用に供されている電気通信回線に接続している自動公衆送信装置に情報を入力するなど,著作権法2条1項9号の5イ又はロ所定の方法により自動公衆送信し得るようにする行為をいい,自動公衆送信装置とは,公衆の用に供されている電気通信回線に接続することにより,その記録媒体のうち自動公衆送信の用に供する部分に記録され,又は当該装置に入力される情報を自動公衆送信する機能を有する装置をいう(著作権法2条1項9号の5)。
自動公衆送信は,公衆送信の一態様であり(同項9号の4),公衆送信は,送信の主体からみて公衆によって直接受信されることを目的とする送信をいう(同項7号の2)ところ,著作権法が送信可能化を規制の対象となる行為として規定した趣旨,目的は,公衆送信のうち,公衆からの求めに応じ自動的に行う送信(後に自動公衆送信として定義規定が置かれたもの)が既に規制の対象とされていた状況の下で,現に自動公衆送信が行われるに至る前の準備段階の行為を規制することにある。このことからすれば,公衆の用に供されている電気通信回線に接続することにより,当該装置に入力される情報を受信者からの求めに応じ自動的に送信する機能を有する装置は,これがあらかじめ設定された単一の機器宛てに送信する機能しか有しない場合であっても,当該装置を用いて行われる送信が自動公衆送信であるといえるときは,自動公衆送信装置に当たるというべきである。

イ そして,自動公衆送信が,当該装置に入力される情報を受信者からの求めに応じ自動的に送信する機能を有する装置の使用を前提としていることに鑑みると,その主体は,当該装置が受信者からの求めに応じ情報を自動的に送信することができる状態を作り出す行為を行う者と解するのが相当であり,当該装置が公衆の用に供されている電気通信回線に接続しており,これに継続的に情報が入力されている場合には,当該装置に情報を入力する者が送信の主体であると解するのが相当である。

ウ これを本件についてみるに,各ベースステーションは,インターネットに接続することにより,入力される情報を受信者からの求めに応じ自動的にデジタルデータ化して送信する機能を有するものであり,本件サービスにおいては,ベースステーションがインターネットに接続しており,ベースステーションに情報が継続的に入力されている。被上告人は,ベースステーションを分配機を介するなどして自ら管理するテレビアンテナに接続し,当該テレビアンテナで受信された本件放送がベースステーションに継続的に入力されるように設定した上,ベースステーションをその事務所に設置し,これを管理しているというのであるから,利用者がベースステーションを所有しているとしても,ベースステーションに本件放送の入力をしている者は被上告人であり,ベースステーションを用いて行われる送信の主体は被上告人であるとみるのが相当である。そして,何人も,被上告人との関係等を問題にされることなく,被上告人と本件サービスを利用する契約を締結することにより同サービスを利用することができるのであって,送信の主体である被上告人からみて,本件サービスの利用者は不特定の者として公衆に当たるから,ベースステーションを用いて行われる送信は自動公衆送信であり,したがって,ベースステーションは自動公衆送信装置に当たる。そうすると,インターネットに接続している自動公衆送信装置であるベースステーションに本件放送を入力する行為は,本件放送の送信可能化に当たるというべきである。
<--

送信の主体
今回の判決で最大のポイントは、以下の2点だ。
 ・5(1)ア:「公衆送信は,送信の主体からみて公衆によって直接受信されることを目的とする送信をいう(同項7号の2)」
 ・5(1)イ:「当該装置に情報を入力する者が送信の主体
以下、それぞれについて論ずる。

■「公衆送信は,送信の主体からみて公衆によって直接受信されることを目的とする送信」か
実は、公衆送信を定義する2条1項7号の2には、「公衆によつて直接受信されることを目的として無線通信又は有線電気通信の送信を行うことをいう。」としか規定されておらず、「送信の主体からみて」という視点の追加は存在しない。一見当たり前なので、思わずスルーしてしまいそうだ。

ところが、その視点からしたら、「あらかじめ設定された単一の機器宛てに送信する機能しか有しない場合であっても,当該装置を用いて行われる送信が自動公衆送信であるといえるとき」があると、最高裁が考えてしまった。

自動公衆送信装置とは,公衆の用に供されている電気通信回線に接続することにより,その記録媒体のうち自動公衆送信の用に供する部分に記録され,又は当該装置に入力される情報を自動公衆送信する機能を有する装置をいう(著作権法2条1項9号の5)」と言っておきながら、単体で自動公衆送信する機能を有しなくても、自動公衆送信装置に当たる「べき」となったというのだ。

斬新な「べき論」の登場だ。
(「あらかじめ設定された単一の機器宛てに送信する機能しか有しない」装置で自動公衆送信を成立させるために、「送信の主体」という視点を追加したのだから、斬新なのは当たり前なんだが(苦笑))

そして、斬新な「べき論」を成立させるため、「送信の主体」を画期的に導くのが、続く5(1)イだ。

■「当該装置に情報を入力する者が送信の主体」か
送信の主体」が、送信した者ではなく、入力した者だというユニークな解釈は、とても「相当」とは是認したくないので、5(1)イを修正してみるとこうだ。

自動公衆送信が,当該装置に入力される情報を受信者からの求めに応じ自動的に送信する機能を有する装置の使用を前提としていることに鑑みたところで、その主体は,当該装置が受信者からの求めに応じ情報を自動的に送信することができる状態を作り出す行為を行う者と解するのが相当ではなく、当該装置が公衆の用に供されている電気通信回線に接続しており,これに継続的に情報が入力されている場合には,当該装置に情報を入力する者はせいぜい送信可能化の主体であって、送信の主体であると解することは、相当ではない。

さて、どういうことか。

5(1)イで示された自動公衆送信の行為主体についての規範は、まるで送信可能化の行為主体の要件なのだ。自動公衆送信は、送信可能化の上位概念か何かなのだろうか?

送信可能化は、「著作権法2条1項9号の5イ又はロ所定の方法により自動公衆送信し得るようにする」ことなのだから、その行為主体が自動公衆送信の行為主体と異なる場面を、法が当然に予定していると言って良い。そして、入力した者が送信可能化の主体に含まれることは、2条1項9号の5イが「当該自動公衆送信装置に情報を入力すること」と規定していることからも、明らかである。

しかし、公衆送信権に関する23条1項が、「著作者は、その著作物について、公衆送信自動公衆送信の場合にあつては、送信可能化を含む。)を行う権利を専有する。」と規定していることが、多少の混乱を生むかもしれない。自動公衆送信送信可能化が含まれるのごとき、本判決のように。

まあ、少し考えれば、公衆送信送信可能化が含まれないことからすれば、その下位概念である自動公衆送信送信可能化が含まれることもないとは気付く。これは単に、自動公衆送信の場面では、送信可能化権も認められる、というだけだと。

更に言えば、本件上告人らは、放送事業者としての送信可能化権(99条の2)の侵害を争っている。放送事業者は、自らが著作権を有しない番組は、公衆送信権も自動公衆送信権も有しないが、著作隣接権としての送信可能化権が認められている。

公衆送信権を認められていない放送事業者の送信可能化権を論ずるなら、その送信可能化の行為主体に該当する行為が、同時に自動公衆送信の行為主体に該当してはマズイ。
 →「X君にの権利はありますが、の権利はありません。でも、すると、もしちゃいます。」というのは困る。

行為主体がたまたま同一になることはあるだろうが、著作権法は刑事罰があることから、誤解を恐れずに刑法的な例えをするなら、送信可能化自動公衆送信は牽連犯たり得ても、観念的競合ではない。

23条1項括弧書の場合とは、準備行為である送信可能化権が認められずに自動公衆送信権が認められても絵に描いた餅だから、自動公衆送信権を有する者は、当然にその準備行為の権利も認めますよ、ということだろう。それぞれの行為を別々の主体に行わせることは、十分に可能だ。

例えば、著作物の権利者が、どこぞのハウジング業者にホームページ用のサーバ(自動公衆送信装置)を預けて自ら運用しているが、自らの著作物を公開するためのホームページの制作・ファイルのアップロードは外部業者に委託している場合、送信可能化したのはホームページ制作業者で、自動公衆送信しているのは著作権者自身ということになろう。入力(アップロード)する者が送信の主体になるなら、ホームページ制作業者に、自動公衆送信権まで与えなければ、仕事を委託できないことになってしまう。

これが、権利侵害を前提とするプロバイダ責任制限法の話なら、入力した者が発信者とされるのだけど、文化の発展に寄与することを目的とする著作権法は、権利の活用を想定して解釈する必要がある。

よって、「入力する者が送信の主体」という、自動公衆送信送信可能化の行為主体が一致する5(1)イのような規範を立てるのは、画期的過ぎて理解を超える。

送信可能化権侵害のあてはめ部分
こんなにつっこみどころ満載な規範は、とても論理的に導かれたとは考えられない。どうにかして、自動公衆送信する機能を有しないベースステーションを、自動公衆送信装置に仕立てようと、結論ありきで頑張ったのだろう。5(1)アの「べき論」で飛躍させた理論に合わせて、5(1)イもぶっ飛ばしたのだ。恐らく意識的に。そして、5(1)ウであてはめ完了だ。

ザックリ書くと
・5(1)イへのあてはめ
 ベースステーションに入力している被上告人は送信の主体
・5(1)アへのあてはめ
 送信の主体である被上告人からみて自動公衆送信なのでベースステーションは自動公衆送信装置
∴インターネットに接続しているベースステーションに放送を入力する行為は送信可能化権侵害


うーむ。
入力しても送信の主体じゃなければ、送信の主体でない被上告人から見ても自動公衆送信は見当たらず...というはずなんだけど(^^;;

公衆送信権侵害の判決理由
-->
(2) 公衆送信権侵害について
本件サービスにおいて,テレビアンテナからベースステーションまでの送信の主体が被上告人であることは明らかである上,上記(1)ウのとおり,ベースステーションから利用者の端末機器までの送信の主体についても被上告人であるというべきであるから,テレビアンテナから利用者の端末機器に本件番組を送信することは,本件番組の公衆送信に当たるというべきである。

<--

あれ?放送事業者に公衆送信権は認められていないんじゃなかったの?
と思うかもしれない。

しかしこれは、上告人らが制作した番組について、著作者として著作権を有する立場から主張した公衆送信権侵害だ。よって、5(1)と混同してはならない。別物だ。

ポイントはやはり、「送信の主体
・テレビアンテナからベースステーションまでの送信の主体が被上告人
・ベースステーションから利用者の端末機器までの送信の主体も被上告人
∴テレビアンテナから利用者の端末機器に本件番組を送信することは,本件番組の公衆送信権侵害

アンテナからベースステーションまでの送信て、少なくとも、公衆送信から除外されてる同一構内だと思うが、それは別にしても、やはりここでも「(1)ウのとおり」だから、入力したからと送信の主体にされて、公衆送信権侵害...残念!

■IPマルチキャスト:蛇足
IPマルチキャストは自動公衆送信に該当するので、放送と同時に送信可能化(同時再送信)する場合、放送の複製権(98条)を侵害せず、かつて放送事業者に、これを制限する権利はなかった。そこで与えられたのが、平成14年改正による放送事業者の送信可能化権(99条の2)だ。

つまり、放送事業者の送信可能化権とは、IPマルチキャストによる同時再送信を制限する権利を認めたものだった。「単一の機器宛てに送信する機能しか有しない」装置なんぞ、当時の議論で念頭にあったと思えない。むしろ、IPマルチキャストと言われないために工夫したのが、まねきTVだったのだろう。

ところが今回最高裁は、「べき論」を導くために、放送事業者の送信可能化権の平成14年改正に触れることなく、著作者の送信可能化権の平成9年改正の状況だけ説明した。

実は上告人らは、一審(東京地裁判決平成20年6月20日)から「IPマルチキャストは,チャンネルを選択することにより利用者が求める番組を視聴することができるサービスであって,利用者が選局したデータをIP局内装置に送信したことに応じて,受信者の選択したチャンネルの番組のみ最寄りのIP局内装置から送信するものであり,本件サービスと同様のサービスである(IP局内装置がベースステーションに相当する。)。特に,利用者が自動的にテレビ番組を送信する機器に対して遠隔操作によりデータ送信をさせるための指令(チャンネル選択)を行っている点で全く同一である。かかるIPマルチキャストについては,利用者のチャンネル選択は「公衆からの求め」にすぎないと当然に判断されている。よって,本件サービスにおける利用者によるチャンネル選択も「公衆からの求め」にすぎないことが明らかである。」と主張していた。

つまり、まねきTVが、IPマルチキャスト放送してるという主張だ。個人が所有するベースステーションをハウジング業者に預けたら、ハウジング業者がIPマルチキャスト放送していることになってしまうのだ。ワォ!アメージング!(苦笑)

と思っていたら、最高裁はIPマルチキャストかどうか一顧だにせず、更に斜め上を行ってしまった。

なんせ、アンテナつなげば「入力送信な~のだ。」(バカボンのパパ風に)

★なお、平成18年改正で、同時再送信のIPマルチキャストを有線放送に準じる扱いにする改正がされたが、「専ら当該放送に係る放送対象地域において受信されることを目的」とする場合に限定された話なので、今回は関係ない。

では続けて、ロクラク最判へ


■■最判平成23年1月20日:ロクラク■■
http://kanz.jp/hanrei/detail.html?idx=6713

複製権侵害の判決理由
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4 しかしながら,原審の上記判断は是認することができない。その理由は,次のとおりである。
放送番組等の複製物を取得することを可能にするサービスにおいて,サービスを提供する者(以下「サービス提供者」という。)が,その管理,支配下において,テレビアンテナで受信した放送を複製の機能を有する機器(以下「複製機器」という。)に入力していて,当該複製機器に録画の指示がされると放送番組等の複製が自動的に行われる場合には,その録画の指示を当該サービスの利用者がするものであっても,サービス提供者はその複製の主体であると解するのが相当である。すなわち,複製の主体の判断に当たっては,複製の対象,方法,複製への関与の内容,程度等の諸要素を考慮して,誰が当該著作物の複製をしているといえるかを判断するのが相当であるところ,上記の場合,サービス提供者は,単に複製を容易にするための環境等を整備しているにとどまらず,その管理,支配下において,放送を受信して複製機器に対して放送番組等に係る情報を入力するという,複製機器を用いた放送番組等の複製の実現における枢要な行為をしており,複製時におけるサービス提供者の上記各行為がなければ,当該サービスの利用者が録画の指示をしても,放送番組等の複製をすることはおよそ不可能なのであり,サービス提供者を複製の主体というに十分であるからである。

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■カラオケ法理と言われるのを意識的に避けた?
「その録画の指示を当該サービスの利用者がするものであっても,サービス提供者はその複製の主体」になってしまうというのは、基本的に行為主体の転換という結果ではカラオケ法理と同じだが、そもそも転換どころではなく、当然にサービス提供者が行為主体と考えているのだろう。

何しろ、図利性を考慮していない。管理・支配だけでカラオケ法理と言うかは議論の余地があると思うが、金築裁判官の補足意見を読む限り、まんまカラオケ法理と言われないように意識したのかもしれない。というか、カラオケ法理的な規範そのものを肯定した上で、要件の固定化を避けた結果、実質はカラオケ法理の強化とも言える。

何しろ、「複製の主体の判断に当たっては,複製の対象,方法,複製への関与の内容,程度等の諸要素を考慮」するというのは、行為規範にならないから困る。まあ、諸般の事情を総合考慮するみたいな言い回しは判決理由では一般的だが、著作権法のように日常的に誰もが権利侵害し得るのにとんでもなく重い刑事罰が規定されてる法律では、もう少しなんとか予測可能な基準を示していただきたい。

それとも、「複製の実現における枢要な行為をして」、それがなければ「当該サービスの利用者が録画の指示をしても,放送番組等の複製をすることはおよそ不可能」であれば、「サービス提供者を複製の主体というに十分」という前例が、今後一人歩きするのだろうか?

■それでもやはり「入力」がポイント?
「放送を受信して複製機器に対して放送番組等に係る情報を入力する」ことは、「複製機器を用いた放送番組等の複製の実現における枢要な行為」というのが、少々引っかかる。

今回は、入力環境を提供した者が複製の主体とされたわけだが、先の「まねきTV」判決によれば、入力することは送信することで、送信可能化権侵害と公衆送信権侵害だったわけだ。あの規範は、ロクラクのような複製してから子機に送信する場合でも、入力することが複製になるなら、そっくり当てはまる。今回は、たまたま、上告人側が複製権侵害しか主張していなかっただけだ。

すると、本件のように入力環境を提供すると、複製の主体になると同時に送信の主体になって、複製権侵害+送信可能化権侵害+公衆送信権侵害のスリーコンボだ。KO。

アンテナつなげば「入力複製送信な~のだ。」(バカボ(ry)

諸要素を考慮すると言いながら、「放送を受信して複製機器に対して放送番組等に係る情報を入力する」という、まるで、まねきTV判決に引っ張られたような形式的な行為を理由にしてしまったのが、不可解に感じる。

入力が問題なら、今後はブースターにつないだワンセグ中継アンテナを室内に設置するとかして、各複製機器は自身のアンテナで独自に受信するサービスにしたら、入力が観念できなそうですが、いかがでしょう(笑)

え?受信感度の良い場所で、窓辺に並べて、ダイレクトに受信させた方が完璧?
ハウジングとしてどうかとは思うが(苦笑)

そしたらきっと、入力複製に不可欠な行為ではなくなって、電源供給が複製に不可欠だ!とか言い出しそうだ。すると、電源供給が複製になって、複製したなら送信可能化で、公衆送信権侵害までやっぱりスリーコンボ...

■日本デジタル家電はそれでも元気
ということで、原審に差し戻して、ロクラクの管理状況等をきっちり認定しろ、という結論なのですが、被上告人の日本デジタル家電は、強気のコメントを発表。
http://www.tv.rokuraku.com/index_110120.html

管理状況等の認定次第で、再度ひっくり返る可能性がゼロではない。
つまり、管理状況等を認定したら、複製の主体と言えなくなるロジックが新たに見つかるかどうか...首の皮一枚といったところか。


■金築裁判官の補足意見
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1 上記判断基準に関しては,最高裁昭和63年3月15日第三小法廷判決(民集42巻3号199頁)以来のいわゆる「カラオケ法理」が援用されることが多く,本件の第1審判決を含め,この法理に基づいて,複製等の主体であることを認めた裁判例は少なくないとされている。「カラオケ法理」は,物理的,自然的には行為の主体といえない者について,規範的な観点から行為の主体性を認めるものであって,行為に対する管理,支配と利益の帰属という二つの要素を中心に総合判断
するものとされているところ,同法理については,その法的根拠が明らかでなく,要件が曖昧で適用範囲が不明確であるなどとする批判があるようである。しかし,著作権法21条以下に規定された「複製」,「上演」,「展示」,「頒布」等の行為の主体を判断するに当たっては,もちろん法律の文言の通常の意味からかけ離れた解釈は避けるべきであるが,単に物理的,自然的に観察するだけで足りるものではなく,社会的,経済的側面をも含め総合的に観察すべきものであって,このことは,著作物の利用が社会的,経済的側面を持つ行為であることからすれば,法的判断として当然のことであると思う。
このように,「カラオケ法理」は,法概念の規範的解釈として,一般的な法解釈の手法の一つにすぎないのであり,これを何か特殊な法理論であるかのようにみなすのは適当ではないと思われる。したがって,考慮されるべき要素も,行為類型によって変わり得るのであり,行為に対する管理,支配と利益の帰属という二要素を固定的なものと考えるべきではない。この二要素は,社会的,経済的な観点から行為の主体を検討する際に,多くの場合,重要な要素であるというにとどまる。にもかかわらず,固定的な要件を持つ独自の法理であるかのように一人歩きしているとすれば,その点にこそ,「カラオケ法理」について反省すべきところがあるのではないかと思う。

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カラオケ法理の考慮要素は、その二要素だけじゃないと思いますが、カラオケ法理の一人歩きを反省すべきというのは、素晴らしいと思います。

しかし、法律の規定によらずに行為類型によって考慮要素が変わるというなら、行為規範としては最悪ですね。判例の死屍累々が蓄積されるまで、予測不能です。

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2 原判決は,本件録画の主体を被上告人ではなく利用者であると認定するに際し,番組の選択を含む録画の実行指示を利用者が自由に行っている点を重視したものと解される。これは,複製行為を,録画機器の操作という,利用者の物理的,自然的行為の側面に焦点を当てて観察したものといえよう。そして,原判決は,親機を利用者が自己管理している場合は私的使用として適法であるところ,被上告人の提供するサービスは,親機を被上告人が管理している場合であっても,親機の機能を滞りなく発揮させるための技術的前提となる環境,条件等を,利用者に代わって整備するものにすぎず,適法な私的使用を違法なものに転化させるものではないとしている。しかし,こうした見方には,いくつかの疑問がある。
法廷意見が指摘するように,放送を受信して複製機器に放送番組等に係る情報を入力する行為がなければ,利用者が録画の指示をしても放送番組等の複製をすることはおよそ不可能なのであるから,放送の受信,入力の過程を誰が管理,支配しているかという点は,録画の主体の認定に関して極めて重要な意義を有するというべきである。したがって,本件録画の過程を物理的,自然的に観察する限りでも,原判決のように,録画の指示が利用者によってなされるという点にのみに重点を置くことは,相当ではないと思われる。
また,ロクラクⅡの機能からすると,これを利用して提供されるサービスは,わが国のテレビ放送を自宅等において直接受信できない海外居住者にとって利用価値が高いものであることは明らかであるが,そのような者にとって,受信可能地域に親機を設置し自己管理することは,手間や費用の点で必ずしも容易ではない場合が多いと考えられる。そうであるからこそ,この種の業態が成り立つのであって,親機の管理が持つ独自の社会的,経済的意義を軽視するのは相当ではない。本件システムを,単なる私的使用の集積とみることは,実態に沿わないものといわざるを得ない。

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ここに、考え方の一端を垣間見る部分がある。

「親機の管理が持つ独自の社会的,経済的意義を軽視するのは相当ではない」

確かに、管理の意義というのは重要だが、その社会的、経済的意義というのは、ロクラク独特なものではない。恐らく金築裁判官は、ハウジングというサービスが、インターネットでは極一般的に定着した、当たり前の存在であることを、ご存知ないのだろう。だから、ロクラクのような管理形態が、放送事業者の利益を害する独特なサービスに見えたのではないか。

「本件システムを,単なる私的使用の集積とみることは,実態に沿わないものといわざるを得ない。」

一度、どこかのiDCにお連れしたいくらいだ。インターネットに接続するサーバというのは、誰もが自宅で管理しているのではない。室温管理、安定的な電源供給、回線の帯域保証など、機材の設置場所を提供する専門の業種が、長年確立している。セキュリティが厳重で、正に管理・支配が強固であることが求められるこれらの業務形態を、様々な利用者が信頼し、自らの所有する機材を預けている。

高速な回線を引くことも、サーバの安定的な運用環境を構築することも、とてもコストを要する上にノウハウが必要なので、その部分だけ専門の業者に任せることで、安価に、簡易に、インターネットを利用できるようにするものであって、その社会的、経済的意義は、広く認知されている。

その前提知識があれば、ロクラクの管理形態が、それほど特別なものでないと分かるだろう。
更に、ホスティングがもっと一般的だと知ったら、どう思うだろうか。

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さらに,被上告人が提供するサービスは,環境,条件等の整備にとどまり,利用者の支払う料金はこれに対するものにすぎないとみることにも,疑問がある。本件で提供されているのは,テレビ放送の受信,録画に特化したサービスであって,被上告人の事業は放送されたテレビ番組なくしては成立し得ないものであり,利用者もテレビ番組を録画,視聴できるというサービスに対して料金を支払っていると評価するのが自然だからである。その意味で,著作権ないし著作隣接権利用による経済的利益の帰属も肯定できるように思う。もっとも,本件は,親機に対する管理,支配が認められれば,被上告人を本件録画の主体であると認定することができるから,上記利益の帰属に関する評価が,結論を左右するわけではない。
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物理的、自然的に観察するだけでは足りないと言いながら、やはり今回は、物理的、自然的な「放送の受信,入力の過程を誰が管理,支配しているか」という観点だけで判断したのですね。しかも、結論を左右しないというなら、社会的、経済的観点は、考えるだけ無駄ということではないでしょうか。

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3 原判決は,本件は前掲判例と事案を異にするとしている。そのこと自体は当然であるが,同判例は,著作権侵害者の認定に当たっては,単に物理的,自然的に観察するのではなく,社会的,経済的側面をも含めた総合的観察を行うことが相当であるとの考え方を根底に置いているものと解される。原判断は,こうした総合的視点を欠くものであって,著作権法の合理的解釈とはいえないと考える。
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「原判断は,こうした総合的視点を欠く」って、原判決ほど、社会的、経済的側面を総合的に観察した判決は、過去にないくらい画期的だったと思うのですが。

原判決の時にもブログに引用したけれど、原判決は、こう説示していた。
http://kanz.jp/hanrei/detail.html?idx=4093
「かつて,デジタル技術は今日のように発達しておらず,インターネットが普及していない環境下においては,テレビ放送をビデオ等の媒体に録画した後,これを海外にいる利用者が入手して初めて我が国で放送されたテレビ番組の視聴が可能になったものであるが,当然のことながら上記方法に由来する時間的遅延や媒体の授受に伴う相当額の経済的出費が避けられないものであった。
しかしながら,我が国と海外との交流が飛躍的に拡大し,国内で放送されたテレビ番組の視聴に対する需要が急増する中,デジタル技術の飛躍的進展とインターネット環境の急速な整備により従来技術の上記のような制約を克服して,海外にいながら我が国で放送されるテレビ番組の視聴が時間的にも経済的にも著しく容易になったものである。そして,技術の飛躍的進展に伴い,新たな商品開発やサービスが創生され,より利便性の高い製品が需用者の間に普及し,家電製品としての地位を確立していく過程を辿ることは技術革新の歴史を振り返れば明らかなところである。本件サービスにおいても,利用者における適法な私的利用のための環境条件等の提供を図るものであるから,かかるサービスを利用する者が増大・累積したからといって本来適法な行為が違法に転化する余地はなく,もとよりこれにより被控訴人らの正当な利益が侵害されるものでもない。」

これが、社会的、経済的側面を含めた総合的観察でないというなら、一体どんな考察をしろと言うのか疑問だ。


まねきTV、ロクラクそれぞれの法廷の裁判官の平均年齢は約65歳だが、皆さんがインターネットを使っているのか、とても気になる。(ちなみにうちの母は74歳だが、用事があるといつもSkypeで呼び出してくるので、ご高齢だからと馬鹿にしているわけではありません。)

最近、いくつかの場所で、映像制作やコンテンツ産業の在り方みたいな議論を目にしたので、自分も思うところを述べておきたいと思う。まとまりもなく、とりとめもない話をつらつらと...


■パチ仕事と映画、アニメ仕事
日本のアニメ、CG業界の特徴の1つに、パチンコ・パチスロ産業への依存というのがある。これは、旧作品の権利を持つ会社が、パチメーカーにその利用許諾を与えるという意味での受け身な話ではなく、パチンコ・パチスロ化する際に発生する映像制作案件を受注するという形での、純粋な映像制作仕事としての能動的・発展的関係の話だ。パチスロ台の液晶画面で流れる映像も、CG制作会社の立派な仕事なのだ。パチメーカーは、CG制作会社に、とてもまともな対価を支払う、お得意さんである。

対して、公知の事実として、日本のアニメの現場の貧しさについては、今更説明を要しないだろう。これは、実写系でも映像制作現場一般の話として、ある程度共通する部分もあるかもしれない。CG制作会社は、アニメだろうと実写だろうとゲームだろうとCMだろうと、コンピュータで作る映像なら、何でも受注できる会社が少なくない。しかし、アニメや映画仕事を受注する場合、元請けでもなけりゃ、まともにやって黒字にするのはかなり困難。その手の仕事の発注元は、映像制作にまともな金を払う気がないことが少なくないが、同時に、赤字で受注する制作会社も後を絶たない。需要と供給が、制作コスト割れしたポイントでバランスが保たれている。

この差が生じる理由は簡単だ。かつて、多くのCGデザイナーやプログラマは、パチ仕事をヨゴレだと思って避けていたが、映画仕事に参加するのはステータスなんで、若い頃はタダでも働きたい仕事だった。著名な劇場作品でも、学生上がりの未経験者を、インターンシップと称してただ働きさせているケースは後を絶たない。映画仕事を受注した会社は、学生の夢を食い物にしてでも活用しないと、赤字が拡大してしまう。

ある程度の規模の制作会社になると、有名な劇場作品に参加するのは、求人のために必須となる。同時に、劇場作品への参加を夢見て入社してきた社員たちの、モチベーションを維持する必要もある。だから、会社の宣伝、イメージアップのため、劇場作品を一定数受注し続ける。

すると、優秀な人材を確保するための赤字映画仕事と、会社経営を維持するための黒字パチ仕事とのバランスが、とても重要となる。黒字にしたいなら、パチ仕事ばかりやれば良いと思うかもれいないが、イメージの悪い会社に人材は集まらないので、両立させなければならない。特にデザイナーは、転職が頻繁で、フリーランスになってしまう人も多いので、一定規模で能力の高いデザイナーを雇用し続けるには、会社が魅力的でなければならない。更にパチ仕事は、ノウハウも必要で、守秘義務の厳しさもあり、映画仕事のように安易に学生を使うこともできない。

これが10年前なら、映画の赤字を埋めるのはゲーム仕事だった。アニメ業界からゲーム業界への人材流出も、当時のトレンドだった。しかし、ゲーム機の性能が向上し、リアルタイムの描画能力が高まった結果、ゲーム向けの映像制作仕事が激減した。憧れの仕事と収益の上がる仕事が合致していた時代は、ゲーム機の性能向上によって終わり、ゲーム仕事に代わって黒字仕事の柱となったのが、ヨゴレのパチ仕事だったわけだ。(念のため言っておくが、自分自身は、パチ仕事をヨゴレとは思ってない。十分に、素晴らしいと思ってるが、その理由は後で。)

みんなが憧れる映画仕事は、ヨゴレのパチ仕事によって、一部支えられてきた。
そしてやっと、パチ仕事のイメージが改善してきたのは、ごく最近の話だ。


■ダメな仕事
と・こ・ろ・が、パチ産業は、いわゆるコンテンツ産業の市場規模が計算される場面などでは、何故か除外されている。政府の発表する資料などでも、パチ業界は存在しない前提で、コンテンツ産業が語られる。20兆円産業のパチを無視して、それより遥かに小さな残余の業界をまとめて、コンテンツ市場の在り方が議論されている。そんな議論の価値が低いのは、言うまでもないだろう。

しかし、映画業界の権利者な方々は、自分たちのコンテンツが、実はパチのおこぼれで作られてる部分があることを知らないかもしれない。そんな人々にいくらヒアリングして資料が作られても、現実を全く反映しないのは当然だ。(対してパチ業界は、映画やゲームで培われた映像制作のノウハウの恩恵にあずかっている。)

各業界の権利者団体は、別個独立で、他業界を知らないかもしれない。しかし、映像制作現場のレイヤーで実際に様々な業界からの映像仕事を受注している各CG制作会社は、実は共通なので、複数の別個独立の業界のリスクが、映像制作現場のレイヤーで担保されてるのだ。逆に言うと、担保できてしまっているから、いつになってもダメな業界はダメなまま、なのかもしれない。

--追記
パチンコ業界は、警察庁が監督官庁であり、コンテンツ振興を扱う経産省からは手を出せないのかもしれない。
--

ダメな業界の仕事というのは、単に金がないだけではなく、コンテンツ制作過程が非合法だったりもする。映画仕事では、著名な監督が、ごく当たり前に、著作権侵害や制作に必要なソフトウェアの不正コピーを現場に指示する。例えば、各社に散らばった100名程度のスタッフで、監督のイメージする映像を共通認識して完成を目指すには、コンテだけじゃ足りないので、監督のイメージに近い既存の映画作品から、シーンやカット毎にリッピングして、関係スタッフに配られたりする。何十人もに違法DVDコピーで配られることもあれば、主要な制作会社のサーバーにリッピングした作品が蓄積されたり、海外の外注先に配布されたりする。(もちろん昔は、VHSの大量コピーだった。)

スタッフは、必要に応じてPCで参考作品の映像を見て、監督のイメージを共有しようと努力しながら、自分たちの作品を制作する。スタッフの人数分、何十作品ものDVDを買うなんて真面目なことは、誰も考えない。何しろ予算の少ない仕事だ。他人の作品を参考にする事自体は合法でも、参考にする手段が非合法なのに、それに文句を言う映画制作関係者は、ほとんど存在しない。リスペクトしてれば良いと思ってる。

劇中で表示される文字などに至っては、どこかからフォントを違法コピーしてCD-Rに焼いてきて、ポンと渡され、「この文字でよろしく」みたいなこともある。

自分がかつて在籍したCG制作会社では、そういう非合法な制作手法を排除するのが、自分の仕事の一つでもあった。受注仕事では、違法行為を指示してくるのがクライアントであり、これと衝突することは極力避けなければならない。現場にウルサイと思われつつも、自分たちの仕事を合法とするため、いつも苦労した。

CG業界とアニメ業界の垣根が崩れ、旧態依然としたアニメ制作会社と共同作業するようになると、本当に最悪な場面に出くわした。アニメの会社は、ソフトウェアを買うものだと考えていないところが大半だ。金の無い業界の常識とは、そういうものだ。それでも、一緒に仕事をする以上、不正ソフトを使わないでくれと、相手の会社の責任者と話をしたりもした。「そんなことしてると、メーカーの監査が入りますよ」と脅しても、「そんなのは追い返すから大丈夫だ」と、まるで気にするのが馬鹿みたいに言われる業界だった。

不正を排除しようという意識を持たない会社が大半だが、そうして違法に作られた自分らの作品の権利だけは、絶対に守られるべきだと信じて疑わない、不思議な業界。それが、映画やアニメの業界だ。極論ではなく、一般論として、日本のアニメ等で、その制作過程全体において完全に合法性が担保されている作品は、皆無と言って良いだろう。中には、「うちの会社に不法行為はない!」と言いたい会社もあるだろうが、下請けや、人件費が安価だからと仕事を投げる、アジア各国の外注先の制作会社が何をしているかは、見て見ぬふりだ。フリーランスのデザイナーに発注する場合も、その個人が、自宅でどんなソフトをしっかりと買い揃えているか、クラックされた不正ソフトを使用していないかなど、発注側は誰も気にしない。結局、安く受注する会社や個人を便利に使うことで、不法行為を押し付けている。


■パチの良さ
対してパチは、完全に合法的な仕事を求められる。発注元が、何度も納品物をチェックする。高い金を出すだけでなく、合法的なコンテンツの制作にこだわる会社が多い。例えば、CGではテクスチャー画像をいくつも使用するが、パチ仕事では、作中で使用した全テクスチャーの著作権チェックがされる。テクスチャー一覧を提出すると、先方の法務部がチェックしたりする。テクスチャー画像は、ロイヤリティフリーの素材集などを買って利用することが多いが、素材集の発売元の会社が無くなっていると、テクスチャー差し替えの指示を出されたり...

そんなことは、かつてのゲーム仕事でも、要求されなかった。


フォントも、遊技機で合法的に使用できる、業務用フォントの契約を求められる。一度、先方がフォントの種類決定を後回しにして、仮のフォントで納品することを現場レベルで合意し、後に先方が差し替える話になっていたのに、先方の法務部に伝わっておらず、「不正なフォントで納品し、損害を与えた」と、損害賠償に発展しそうな時もあった。本当に、合法的なコンテンツにこだわる業界だ。(様々な著作権関係の裁判経験から、パチ業界は学んでいるのかもしれない。)

そういう仕事をしつつ、一方で、自堕落な映画やアニメの関係者に接すると、合法的なパチの仕事を受注できる会社というのが、とても誇らしいと感じるようになったのを覚えている。

しかしながら、パチに代替する黒字仕事が登場する前に、もしもパチ仕事が激減すると、経営が傾くCG制作会社も少なくないだろう。パチ業界は、最近持ち直したような話も聞くが、ちょっと前は市場規模が縮小傾向で、先行きに不安があった。そこで待ち望まれてきたのが、カジノ解禁だ。


■需要創出としてのカジノへの期待
カジノに期待するというと、どうやら、カジノのゲームマシンの仕事に期待をしているのではないかと、大きな誤解をしている人がいる。それは、あまりにもカジノを知らなすぎる。

もちろん、既存のパチメーカーは、海外のギャンブルマシンの供給も行っているので、既存のパチメーカーとの関係の延長で、カジノ向けのマシンの仕事も、期待が大きい部分ではある。CG制作会社から、パチメーカーへ転職し、海外カジノ向けの機種に関わってるなんて人もいる。

しかし、十数年前、自分がまだデジハリの学生だった頃から、SIGGRAPHとラスベガス旅行はセットだった。カジノとは、エンターテインメントの総合産業であり、当時からデジハリの杉山校長は、本場を見ろと学生に教えていた。

ラスベガスは、いたるところにコンテンツが溢れ、輝いていた。遊園地でもないのに、スタートレックのライドものや、ショー、シアターがホテル毎に存在し、どこもかしこも映像仕事の宝の山に見えた。街中の巨大スクリーンが、無数の映像を消費していた。

カジノを解禁するとは、単にギャンブルを解禁することではなく、ギャンブルを中心とした一大エンターテインメント都市を構築し、街中のいたるところにコンテンツ需要が生まれるということだ。合法化の暁には、これらの仕事を、国内の会社が受注できる制度を担保することは、必須だろう。その際、受注した仕事を海外に下請けに出すようなことを一定数制限すると、更に良いかもしれない。

これを、ゲーム、アニメ、映画などと、コンテンツの下流の権利者レイヤーの縦割りでしか業界を評価していないと、上流の制作現場レイヤーの重複に気がつかないので、カジノの魅力が理解できない。

CG制作会社に、「あなたの会社は、アニメ業界ですか?映画業界ですか?ゲーム業界ですか?それともCM業界?」と質問するのが、どれだけ愚問か分かるだろう。1つの会社で、実写合成だって、アニメだって、博物館の展示映像だって、何でもやってたりするのだ(もちろん、それぞれの専業の会社もあるが、そういうところは業界と運命を共にするしかない。)。だから、カジノ解禁で需要が創出されると、パチ依存の現状の偏りを緩和する方向に作用するだろう。それが、間接的に映画やアニメを支えることにつながる。


■制作サイドの改善
もちろん、個々の業界がそれぞれ健全化を目指すのは大事だ。しかし、日本のアニメ系の会社は、プログラマはゲーム会社にいるものだと、勘違いしてる感じがある。アニメの制作会社で、プログラマを重視して雇用している会社は、ほとんど無いのではないか。それが、Pixarに永遠に追いつけない原因だ。道具は、自分たちで作るものだという認識が、文科系アニメ制作会社には抜け落ちてる。なんせ、ソフトウェアは不正入手するのが当たり前だと思ってるのは前記の通りなんで、それを作るのに人件費をかけるという発想がないのかもしれない。プログラマが雇えないのか、雇う気がないのかは別にしても、そういう会社が淘汰されるのは、ある程度仕方のない話だ。

不正を行わずに、プログラマも雇わず、道具をひたすら真面目に買う側にいる会社もあるだろう。プラグイン一つ自給せず、必要なら買えば良いと。それはそれで、黒字を維持できるなら良いのだけれど、かなり非効率なので、小規模な会社でしか無理ではないかな。

理科系CG制作会社は、まだ、映像制作におけるプログラマーの重要性は、理解している。デジハリ時代のクラスメイトなども、インハウスのツールで海外に対抗しようと、ゲーム会社の出資でCG映画専門の大規模な制作会社を立ち上げた奴もいる。そういう会社が成功するよう、心から声援を送りたい。でも、映画ばっかじゃ飽きないの?とは思う。

専門化せず、つまみ食い的に、多様な業界の映像需要に応えられる会社というのが、時代の変化にも生き残れ、社員も飽きずに在職し続けられる、ノウハウのある楽しい職場なんじゃないかなと、個人的に思っている。

ノウハウがなければ生き残れないし、生き残った会社にしかノウハウは残らない。
焼畑農業みたいな業務スタイルの会社は、どうぞご自由にご退場ください。
...とか言ってみるテスト。


■風が吹けば桶屋が儲かる的なナニカ
このブログは、観光立国に関わるものを時々書くけれど、それは、観光立国にはカジノが必須だと考えており、カジノが認められればコンテンツ産業が潤うと考えているからだ。そして、JALを批判するのは、観光立国をインフラ面で妨げているのがJALだからだ。

航空行政が健全化し、LCC+地方空港による安価な観光インフラが整備され、普天間基地跡地だろうと、夕張だろうと、お台場だろうと、カジノが解禁され、観光立国となることが、日本のコンテンツ産業の活性化と合法化(カジノにまつわる仕事は、非合法であってはならないので、不正を厭わない旧態依然とした制作会社は受注できない仕組みも必要)につながる可能性というのに、大いに期待してる。


そして自分は、そういう時代に法律分野で貢献できたらという思いで、職を辞して法科大学院にいる。今回の日弁連の会長選にはガッカリしたし、今年はどうあがいても合格できそうにないけど、新司法試験は三振するまでチャレンジする所存。ギャンブル人生ですわ(涙)


■蛇足1
みんなの党の柿沢議員は、都議時代にお台場カジノ構想に深く関わり、カジノ推進に積極的だし、ショートショートフィルムフェスティバルにも関わってて、映像産業に興味も持ってる。かつ、みんなの党は観光立国も重視している。こういう話に興味持ってくれないだろうか?

■蛇足2
経産省が、コンテンツ振興策についての意見募集をしているので、またちょっと違う話を書いてみた。
「レンダリングサービス等におけるテンポラリライセンス」
http://201002.after-ideabox.net/ja/idea/00786/

■蛇足3
「ハリウッドVFXの仕事を日本で受注するための支援」で、このエントリを紹介。
http://201002.after-ideabox.net/ja/idea/00131/
関連して、こちらにも紹介されてます。
http://shikatanaku.blogspot.com/2010/02/vfx_9898.html

みんな、なんとかしたいんだよね。

Winny事件についてのブログが、久々に更新されていた。
そしたら、NHK記者による、とんでもない弁護妨害の手紙が公開されていた。

http://danblog.cocolog-nifty.com/attorneyatlaw/2009/10/post-785f.html

手紙の内容の酷さに驚いた。

NHKは、こういう露骨な手法でインタビューに応じさせようとする記者が在籍していることを、組織として把握しているのだろうか?

この記者は、こんな脅し方で、いつもインタビューを得ているのだろうか?

ちょっと、余りに驚いたので、ここで取り上げてしまったが、Winny事件とは別にしても、この種の問題はもっと話題にされるべきだ。

高裁、無罪になって本当によかった。
http://danblog.cocolog-nifty.com/index/2009/10/winny-0ca7.html

全く面識もなく、こんなところから言うのもなんですが、おめでとうございます!


>10/9 追記

そういえば、Winnyといえば、最近こういう状況になってる。

「Lessigが案じた未来がここにあった」
http://maruko.to/2009/09/post-67.html

こういう監視が許されるのかどうかという問題は別にして、Winny利用者は、他者にプライバシーを侵害され、CCIFや捜査機関から監視されている可能性が高いということは、自覚した方が良い。

クリエイティブ・コモンズが、文化庁の審議会への報告向けに、フェアユースに関するアンケートを行っています。ご意見のある方は、是非回答を。

http://creativecommons.jp/news/2009/07/19/fairuse_enquete.php

何故こういう質問になっているかは、文化庁の著作権分科会法制問題小委員会の前回の議論が関係していると思われます。著作権法には、民法の信義則のような一般条項が無く、フェアユースを一般条項として規定すべきという中山氏の意見と、その真意を曲げて理解し、民法の信義則があるならフェアユースは要らないという松田氏の意見が対立しているようです。

まだ、議事録が公式には公開されてないのですが、
http://twitter.com/tsuda
これを先月24日の午後1時くらいまで遡れば、大体理解できます。
ちなみにこれが、本物の「tsudaる」ですw


自分の回答は、包括的にフェアユースを導入することが、現在既に行われているコンテンツ制作の現場の違法行為を合法化するために必要、という感じで。フェアユースに反対する著作権者は、自ら著作物を創作していないから理解していないのだろうが、制作現場では、既に他者の著作権を侵害しながらアニメ等が制作されていることからすれば、反対すればするほど自らの首を絞めることを理解すべきだと。二次的利用という意味ではなく、アニメやCG等の映画の著作物の制作「過程」は、著作権侵害無しに成立しないのであって、それらを唯一合法化できるのが、フェアユースだと。

総務省の、放送コンテンツの製作取引適正化に関するガイドライン第2版が策定された。

http://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/02ryutsu04_000015.html
本文
http://www.soumu.go.jp/main_content/000030633.pdf

関係する方々は、自社の立場が、どういう権利・義務を有するのか、知らなければ確認した方が良いので、ご参考に。

アニメの製作(このガイドラインでは、製作と制作をあえて統一し、製作と表記している)に関する部分もあったりします。

著作権の法的性質
http://tatuya.niu.ne.jp/copyright/column/10.html

上記コラムは、著作権の議論を、憲法レベルで整理してある。
こうしてキレイにまとめてあると、著者に感謝したいくらいだ。

法律に関する議論というのは、なまじ条文が日本語で書いてあるものだから、法を学んでない一般人も、容易に参加する。そして、自分の国語力を信じて、自らの正論を語る。ところが、条文に出てくる日本語は、ありゃ日本語じゃないのだ。ヲタクの専門用語。条文の背景なんぞ、エスパーじゃなけりゃ理解できない。

ローマからの歴史をトレースしないと、法律用語の意味すら理解できないこともあるのだけど、一応日本語っぽいから、一般人でも間違った理解は出来てしまう。僕は、法律を学び始めた当初、コンメンタール(逐条解説)なんてものの存在意義すら理解できなかった。日本語の条文に、日本語の解説が膨大に必要とされているなんて、想像もしてなかった。もちろん、今は理解できる。コンメンタール=ヲタク入門だ。

著作権の議論も、一般人が参加して泥沼に陥りやすい。ヲタクと一般人が、一見同じ日本語で議論しているようでも、議論がかみ合うわけがない。

著作権を人権として論じる時、公共の福祉だの内在的制約だの、我が国の法律である以上、当然に念頭に置いて議論しなければならないなんてことは、もしかしたら、ヲタクですら忘れているかもしれない。僕はまだ、ヲタク見習いなんで、上記コラムを読んで、目から鱗だった(自爆)

憲法に思いが至らず、「知的財産保護の核心にある、共産主義的側面」などと表現していた。

とりあえず、コラムの意味が理解できるだけでも、進歩はしてるのかもしれないけど(^^;

恥デジカ

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民放連は、本当にこんなにアホなこと言ったのかな。
http://getnews.jp/archives/11408

これだけ著作権の存在意義を勘違いしてる方針てのは、壮大な釣りマーケティングというか、ネガティブでも良いから話題づくりを目指してるのではないかと、勘ぐってしまう。
http://up01.ayame.jp/up/download/1240837517.jpg

こういうのを阻止したいらしい。
http://www.age2.tv/rd05/src/up5046.jpg

しかし、地デジの普及が目的なら、著作物が無断で翻案されようが、民放連は放置することこそが、本来のあるべき方針だろう。それができるのが、著作権の親告罪たる所以なわけで。権利侵害=悪という誤解に基づく法解釈は、JASRACだけにして欲しい。

まあ、いっそのこと、言うだけじゃなくて、訴訟にしてくれた方がマシかもしれない。そうすれば、これが許されるかどうか、判例が蓄積される。本当の意味で、著作権を主張することの弊害について、議論が盛り上がるかもしれない。

ま、これに対して、現状こんな感じ。
http://chidejika.jp/
http://zenra.tk/
http://sukumizujika.tk/
http://chidejika.tk/
http://chidejika.jp/

わざわざドメイン押さえてまでやるかw

http://getnews.jp/archives/11467
http://www12.atpages.jp/analoguma/
下の方が好きだな。

あ、ちなみに、僕は地デジに興味ありません。TV持ってないし。

WIRED VISION主催のトークセッション
『グーグルの権利覇権と情報流通革命』
骨董通り法律事務所の福井先生ということで、面白そう。

骨董通り法律事務所には、法科大学院のエクスターンシップで大変お世話になったばかり。丁度その時、事務所のメルマガでGoogleの問題を取り上げた直後で、ひっきりなしに問い合わせの電話が殺到していたのが印象的だった。

http://www.kottolaw.com/column_090210.html

http://www.kottolaw.com/column_090323_2.html

コンテンツに偏りがちのエンタメロイヤーとは異なり、クリエイターの創作活動に対する理解の深い先生です。

http://lawandpractice.jp/contents/special/lpro/kotto/legal_p10_1.html

もし、参加を迷ってる人が、参加費で悩んでるなら、きっと損しないので行った方が良い。

その1
その2
その3

前回から間が空いてしまったが、前回の民事訴訟法的なポイントについて松本氏の側から見てから、最後にパチンコ裁判の和解を取り上げる。

前回、著作者裁判とPSソフト裁判がほぼ同時期に係属し、互いに統一的に解決されるべき争点を含んでいたことから、主観的追加的併合や、弁論の併合の可能性があったと指摘した。しかし、松本氏を著作者と思っていた可能性すらある東北新社としても、著作権を西崎氏から譲り受けた際の経緯の不適切さから、松本氏のみが著作者であったら困る状況にあっただろうとも指摘した。だから、互いに西崎氏と敵対しながら、共同訴訟関係になれなかったのだろうと。

どちらの裁判の訴訟物も、判決の効力が他に影響するようなものではないので、必要的共同訴訟(民訴40条)とならないのは当然だが、どの当事者の主張した著作者も異なったので、通常共同訴訟にすらできなかったわけだ。

各当事者の主張した、宇宙戦艦ヤマトの著作者:
・西崎氏:自分
・松本氏:自分
・東北新社:ウエストケープ及びオフィスアカデミー

しかし、そうであるなら、松本氏が著作者裁判を提起したこと自体に疑問が生じる。先に係属していたPSソフト裁判で、両当事者が、自らの主張と異なる者を著作者だと争っていたのであり、どちらが勝つにしても松本氏には受け入れられない裁判だったはずだ。自らの事実上の利益に反する。この場合、松本氏は、PSソフト裁判に独立当事者参加(民訴47条)すべきだったのではないか。

-->
独立当事者参加:民訴法47条1項
訴訟の結果によって権利が害されることを主張する第三者又は訴訟の目的の全部若しくは一部が自己の権利であることを主張する第三者は、その訴訟の当事者の双方又は一方を相手方として、当事者としてその訴訟に参加することができる。
<--

互いに矛盾した理由を元に判決が出るかもしれない2つのタッグマッチ(PSソフト裁判、著作者裁判)を平行して行うのではなく、バトルロイヤル(独立当事者参加)で三者が一気に決着を着けるべきだったはずだ。松本氏の弁護士が、PSソフト裁判の存在を知らなかったはずはない。何しろ、松本氏の訴訟復代理人弁護士は、PSソフト裁判被告のバンダイビジュアルの訴訟代理人弁護士でもあったのだから。

おや?

独立当事者参加となった場合、バンダイビジュアルと松本氏は対立関係に立つ。何のことは無い。この弁護士では、そもそも独立当事者参加など、不可能だったわけだ。敵対する当事者同士の弁護など、同時にできないことは言うまでもない。

両立し得ない事実の主張をしているクライアントを同時に抱えて2つの訴訟を受任していたという事実だけでは、どのように関わるようになったのか経緯が不明なので、安易に批判はできない。単に、気持ち悪いとは思う。

しかし、影響が無い建て前とはいえ、同じ裁判長裁判官で同時期に係属している訴訟で、矛盾する主張をすることが、少なくともクライアントの為に最適とは思えない。弁護士倫理的には、ギリギリセーフなのだろうか...

あまり深入りしてはいけないような気がしてきたので、これ以上触れない。
とにかく著作者裁判は、独立して提起された点からして、民事訴訟法的に不適切だったのではないか、という指摘に留めておく。


さて、最後のパチンコ裁判に移ろう。

東北新社は、平成16年6月、パチンコ機「CRフィーバー大ヤマト」およびパチスロ機「大ヤマトS」等の製品が、東北新社が保有するアニメーション映画「宇宙戦艦ヤマト」の著作権を侵害しているとして、パチンコ機を製造販売した株式会社三共のほか、株式会社ビスティ(パチスロ機製造販売)、インターナショナル・カード・システム株式会社(PS2用パチンコシミュレーションゲーム製造販売)、および株式会社アニメーションソフト(「大ヤマト」の許諾元(旧:株式会社ベンチャーソフト))を相手方として、東京地裁に損害賠償請求等を提起(平成16年(ワ)第13725号)。
http://kanz.jp/hanrei/detail.html?idx=1274

これに対し、アニメーションソフトの補助参加人として、松本氏と、氏が代表取締役の零時社が参加。つまりこの裁判は、「東北新社v.s.松本氏」というのが、本当の構図だ。三共、ビスティ、インターナショナル・カード・システムら3社担当の弁護士が2名、アニメーションソフトの弁護士が4名なのに、補助参加人の松本氏らの弁護士は12名もいる。

また、この訴訟が係属後、三共らは「CRフィーバー大ヤマト2」等も製造販売したため、翌年、それらの著作権侵害(及び不正競争防止法に基づく請求)を理由に同様の訴訟が東北新社から提起され、三共、ビスティ、フィールズが被告になったが、これは先の訴訟と同日に同じ裁判官らによってほぼ同じ判決がなされているので、特に触れない。
http://kanz.jp/hanrei/detail.html?idx=1275

訴訟提起段階での、東北新社の奇妙な点は、松本氏原作の「大ヤマト」そのものには、何も請求していない点だろうか。松本氏からの許諾で、被告アニメーションソフトが製作した、OVA「大ヤマト零号」のDVD販売に関しても、何も請求していない。つまり、「大ヤマト」そのものが「宇宙戦艦ヤマト」の著作権を侵害したかどうかは、争われていない。そこから、更に許諾を受けて製造販売された、「大ヤマト」の遊技機等が、著作権侵害と言われたのだ。どうやら東北新社は、「大ヤマト」そのものは「宇宙戦艦ヤマト」とは無関係の著作物という認識を持っているか、翻案された著作物だとは認識していても存在を認めているか、単に松本氏とは争いたくなかったか、ということだろう。当事者と争点を増やしたくなかっただけかもしれないが、松本氏との直接対決を避けようという姿勢だけは、いつも一貫しているのかもしれない。

しかし、「大ヤマト」原作者として松本氏は、これを静観はできなかったのか、結局は弁護士12名を従えて補助参加した。一見、尤もな気もするが、よく考えると補助参加する利益が松本氏にあったのか、大いに謎だ。

-->
民訴法42条:補助参加
訴訟の結果について利害関係を有する第三者は、当事者の一方を補助するため、その訴訟に参加することができる。

<--

松本氏は、被告アニメーションソフトの補助参加人となったのだが、訴外の第三者として傍観していてアニメーションソフトが敗訴したところで、松本氏に対して法律上はおろか、事実上の影響すら考え辛い。判決の効力は、訴外の松本氏に及ばないし、パチンコ裁判の争点に関連する事実のうち、原作者として許諾を与えた側に、事実上利害関係が生じる点が無いのだ。

民事訴訟法的には、補助参加した場合の参加者への判決の効力は、一つの論点である。現在の判例・通説は、「参加的効力説」というのをとっている。この説では、敗訴した場合の判決中の理由にも、補助参加人は拘束される。しかし、勝訴したからといって利益となることなど、ほとんどない。後日、勝訴した理由と矛盾する理由で、被参加人(この場合はアニメーションソフト)から何か不利益な請求をされるリスクを回避できる、という程度である。「あの一緒に戦った裁判で、そんな事実は否定されたじゃないか!」という感じだ。

しかし、ライセンス許諾者側の松本氏は、勝訴した場合にアニメーションソフトから何か請求されるような関係に無いのだ。何か請求される可能性がある場合とは、アニメーションソフトが敗訴した場合しか想定できない。松本氏が許諾した著作物に瑕疵があった(他人の著作権を侵害していた)等の理由で、損害賠償を求められるケースだろうか。この場合、参加的効力説からは、補助参加人は敗訴の責任を被参加人と共同して負担させられるので、損害賠償から免れなくなるという不利益しか生じない。参加せずに傍観していれば、アニメーションソフトが敗訴したところで、その裁判は松本氏に一切関係無いので、後に損害賠償請求訴訟を提起されても、前訴の敗訴理由などに拘束されずに一から争える。一体、松本氏が補助参加した理由は、何だったのだろう。どんな利害関係が成立するのか。

補助参加とは、当事者から異議が出なければ、裁判所は利益の有無などの要件を満たしているか、わざわざ判断しない。自ら不利益を負いに来る者を、当事者らが受け入れるなら、反対する理由はない。

実は、松本氏は、被参加人のアニメーションソフトが唯一責任を追及された、共同不法行為成立の可否について、何も言わなかった。本当は、補助する意思など無いとしか思えない。この視点から、被告らと補助参加人が、どの争点にどう応じたかの違いを見ると面白い。三共、ビスティ、インターナショナル・カード・システムの3被告は、全ての争点に応じている。しかし、アニメーションソフトと補助参加人は、利害関係が異なることが明確なのだ。

東北新社が著作権を有するかどうかという根本的な争点に、アニメーションソフトは争った形跡がない。沈黙は、自白とみなされる(民訴159条1項)。しかし、翻案権は有しないと争っている。対して松本氏は、映画製作者はオフィスアカデミー又はウエスト・ケープだったとして、西崎氏は製作者ではないので著作権を有せず、その西崎氏から著作権譲渡を受けたとする東北新社の著作権を否定。しかし、翻案権に関しては、「不知」と陳述した。不知の陳述は、一応否認との推定を受ける(民訴159条2項)が、争ったという効果は弱い。この争点について、アニメーションソフトが使った証拠は、正に松本氏が東北新社と交わした合意書であったのだ。その合意書の当事者の松本氏が、補助参加しながら不知の陳述しかしなかったというのは、補助しないどころか、険悪な関係すら想像してしまう。

逆に見ると、アニメーションソフトは、映画製作者がオフィス・アカデミー又はウエスト・ケープとは主張せず、翻案権は西崎氏に留保されていると主張したので、西崎氏は著作権者であった必要がある。つまり、映画製作者は西崎氏であって欲しいのだ。しかし松本氏は、そもそも西崎氏が映画製作者とされることが我慢できないので、西崎氏に翻案権が留保されること自体を認めたくないのだ。何しろ、西崎氏との和解で、どうせ手足を縛られているのだから。

アニメーションソフトは、松本氏と東北新社で交わした平成11年1月25日の合意書を生かせれば、OVA「大ヤマト」が「宇宙戦艦ヤマト」っぽくても、製作を正当化できる。三共らの遊技機を保護する以上に、自らの作品もいつ訴えられるか分からない立場であり、西崎氏から東北新社への著作権譲渡時に、翻案権が留保されたと主張することは、価値があるのだ。

東北新社への譲渡契約について、合意書3条によれば
-->
ヤマト作品に登場するキャラクター(人物,メカニック等の名称,デザインを含む)を使用し新たな映像作品(ただし,キャラクター使用以外の行為でヤマト作品の著作権を侵害しないものに限る)を制作する権利は西崎に留保されていること。
<--
と確認しており、同4条2項では、
-->
乙(東北新社)は,甲(松本氏)がヤマト作品に関連する新作の企画を希望する場合,これに全面的に協力する。ただし,甲は,乙に対し事前に企画内容の詳細を通知し,説明する。
<--
と規定されている。つまり、許諾を得る関係には無いというものだ。

同じ合意書は、別の争点でも活用される。それは、東北新社が、三共らの製品について、宇宙戦艦ヤマトの著作権を行使できる立場にあるかという争点だ。この争点は、上記の翻案権の存否に関する争点と背中合わせだが、ここでは松本氏も同じ合意書を用いて主張している。三共らの製品は、守ろうという姿勢のようだ。しかし、アニメーションソフトの主張との差が明快だ。アニメーションソフトは、同じく合意書の3条と4条を使ったが、松本氏は3条を使わず、4条のみを使ったのだ。西崎氏に翻案権が留保されていると解釈できる規定は、何が何でも使いたくないのだろう(苦笑)

映画製作者が西崎氏でないとなると、東北新社は譲渡契約を無権利者と締結したこととなり、せっかくの合意書の前提すら危うい。実をとるアニメーションソフトと、名誉のみにこだわる松本氏のスタンスの違いは、明確と言えよう。結局のところ、補助参加などではなかったのだ。補助参加人の訴訟行為は、被参加人の訴訟行為と抵触してはならない(民訴45条2項)のだ。

-->
45条2項:補助参加人の訴訟行為
補助参加人の訴訟行為は、被参加人の訴訟行為と抵触するときは、その効力を有しない。

<--

結果、正に西崎氏が映画製作者とは認められず、東北新社への著作権譲渡が認められないとする判決が下される。三共らの完全勝訴と言えよう。しかし、アニメーションソフトや松本氏にとって、この勝ち方がプラスになったのか怪しい。負けた東北新社は、当然控訴した。

なお、東北新社が負けたのは、主張がお粗末だったからで、訴訟の経緯を見れば妥当な判決だ。合意書4条2項に対する東北新社の反論は、酷いとしか言いようがない。

「丙4合意書は,丙4合意が成立するに至る経緯からすれば,原告と補助参加人P1との友好協力関係全般についての精神的,営業政策的観点から作成されたものであり,丙4合意書4条2項も,法律的な意味はない。」だそうだ。

精神的、営業政策的観点から、松本氏をだまくらかしたということだ。そんなことが、よく自ら主張できるものだ。こういった、信義に反するようなことを言うから、勝てないのではないか。

また、遡ればPSソフト裁判の際、著作者人格権侵害を主張する西崎氏に対して、東北新社は西崎氏が著作者ではないと争った。その際、ウエストケープ及びオフィスアカデミーが著作者だと主張したのだ。法人が著作者となる場合とは、職務著作(著作権法15条)の場合しかないことは、「その2」で書いた。ところがパチンコ裁判では、西崎氏が映画製作者だったとするために、ウエストケープ及びオフィスアカデミーは実体のないダミー会社だったと主張したのだ。著作権譲渡契約書に、両社が製作者として表示されていた事実について、何の根拠も示さずに「ダミー会社だから、実態は西崎氏個人が製作者だ」と主張したのだ。ダミー会社だったのなら、正に西崎氏は著作者だったということではないか。まあ、相手が異なれば既判力は及ばないので、訴訟戦略上は、裁判毎に矛盾した主張をするのも自由だ。しかし、過去に自らが利用した証拠で負けるというのは、因果応報というものだ。

控訴の結果は、「その1」で書いた通り、訴訟上の和解(和解3)だ。またしても和解だ。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/081215/trl0812152023017-n1.htm

http://www.tfc.co.jp/news/detail.php?reg_id=203

-->

 本和解は、被控訴人らのうち一部の者が東北新社に対して和解金2億5000万円を支払うことを内容とするものです。なお、本和解成立の前提となる当事者間の合意により、本和解金の趣旨等を含むこれ以外の事情について説明することはできませんので、ご理解頂きますようお願い申し上げます。
 東北新社は、日本のアニメーション史に残る不朽の名作「宇宙戦艦ヤマト」の著作権を正当に保有する会社として、今後も同作品の権利ビジネスを積極的に展開していく意向です。

<--

この発表から想像できることは以下だ。
・被控訴人らのうち一部の者
→アニメーションソフトは、既に一審判決前に解散してしまった会社なので、どう考えても和解金など出せまい。判決と異なり、実効性のない和解など、するはずが無い。すると、必然的に三共ら遊技機メーカーのことだろう。
・本和解金の趣旨等を含むこれ以外の事情について説明することはできません
→和解金の趣旨が、損害賠償金ではない、別の何かかもしれない。
・東北新社は、日本のアニメーション史に残る不朽の名作「宇宙戦艦ヤマト」の著作権を正当に保有
→著作権譲渡契約の経緯を正当化できたかは怪しい。正当化できたなら、その根拠を公表することが、東北新社にとって最大の利益のはずだ。正当化でき、和解金の趣旨が損害賠償金なら、誰も隠すべき理由がない。堂々と発表しただろう。

wikiでは、東北新社が控訴審で、著作権の包括移転契約の正当性を証明する証拠を提出したとも書かれている
しかし、その情報のソースが示されておらず、にわかに信じられない。

つまり
・著作権取得を論理的に正当化はできないが、著作権者であることを相手方には認めてもらった。
・引き換えに、損害賠償請求は諦め、何か別の、公にすると都合の悪い趣旨で和解金を得たかもしれない。

2億5千万円を損害賠償以外で出費したとしたら、それが支払側にプラスになるケースとは何だ。何かへの出資だろうか...

想像しても無駄だが、いずれ作品が発表される段階で、何かしら明らかになると面白い。


ところで、著作者裁判とPSソフト裁判で、飯村裁判官の下した判決が確定していたら、どうなっていただろうか。もしくは、PSソフト裁判に松本氏が独立当事者参加して、3者に既判力の及ぶ判決が確定していたら、どうだったろうか。西崎氏が著作者であり、東北新社は翻案権の制約を受けない包括的な著作権者であり、それを松本氏も争えないという既判力だ。明らかになっている事実関係を客観的にみて、最も妥当な結論だろう。単純に三共らに既判力が及ばずとも、パチンコ裁判を避けられた可能性もあるかもしれない。そうすれば、とっくに「復活編」は実現していたかもしれない。

ヤマトの訴訟の歴史を振り返ると、先のことを考えず、その場その場で都合の良いように和解し、和解内容を明らかにせず、権利関係を不明確にして無駄な争いを増やしてきたように見えてならない。

パチンコ裁判での東北新社の敗訴は、何にも増して、最悪だった。破産廃止決定された法人に著作権が残っていたとすれば、さぞ、旧債権者らを喜ばせたことだろう。三共らは、東北新社の著作権を否定できたところで、どれ程の価値があったのだろうか。裁判所は、清算人を選任して宇宙戦艦ヤマトの著作権を換価させ、その配当は、旧債権者らに追加配当されたことだろう。そして、新たに著作権者となる者と、三共らの新たな戦いの幕が...否、そうなることが分かっているなら、三共が自ら著作権者となる可能性もあっただろう。それは、宇宙戦艦ヤマトという作品にとって、幸せだったろうか。

作品を生かすも殺すも、権利関係を明確にすべくアドバイスする、弁護士の責任だ。ヤマトと比べ、僅か5年後の作品であるガンダムとの作品数の差、世界の広がりの差は、比較せずにはいられない。もちろん、作品が多ければ良いわけでも、世界が広がれば良いわけでもない。しかし、法的問題が生じる作品と、生じなかった作品の差は、確実に存在する。マクロスも然りだ。

望むべくは、「その1」で示した懸念が、杞憂であって欲しい。和解の内容が、西崎氏にとってマイナスでないことを祈るばかりだ。過去の争いを水に流し、東北新社、西崎氏、松本氏が協力して「復活編」を素晴らしい作品に仕上げてくれれば、ファンにとって最上の喜びとなろう。不安と期待を込めて、待つしかない。「その1」から読んでくれた方は、是非とも不安と期待を共有していただきたい。

最後に、和解後最初の、東北新社許諾による、藤商事によるパチンコ遊技機のサイトへリンクする。
http://www.cryamato2.com/

素晴らしすぎるクオリティではないか。


その1
その2
その4

西崎原告が、バンダイ、バンダイビジュアル、東北新社らを訴えたPSソフト裁判一審(東京地判平成13年7月2日)において、西崎氏の請求は以下であった。
--
1 被告らは,別紙物件目録1及び2記載の各ゲームソフトを複製,譲渡又は貸与してはならない。
2 被告らは,原告に対し,連帯して金1億円及び内金3000万円に対する平成11年9月15日から,内金7000万円に対する平成12年5月23日から各支払済みに至るまで年5分の割合による金員を支払え。
--
http://tyosaku.hanrei.jp/hanrei/cr/3276.html
http://members.at.infoseek.co.jp/just1bit/yamato/rights/trials.html#2

主な争点は3つ。
1:宇宙戦艦ヤマトの著作者は誰か
2:著作権譲渡契約に、翻案権譲渡と、著作者人格権に基づく請求の放棄が含まれたか
3:著作者人格権侵害に基づく請求をすることは、信義則違反か

このうち、著作者については、3つの訴訟を通して全てで争われている共通の争点だが、PSソフト裁判での裁判所の判断は以下。
「原告は,アニメ作品の制作等を業としていたが,昭和49年から58年に掛けて,テレビないし劇場用映画である本件各著作物を制作,著作した(なお,本訴において,被告らは,本件各著作物の制作過程について,反証を全く行っていないが,このような弁論の全趣旨に照らして,上記のように認定した。)。」

西崎氏の著作者人格権を否定したい東北新社らは、この点にろくな反証をしなかった。著作権譲渡契約時の添付書類の記述と、作品中のクレジット表記のみから、ウエストケープとオフィスアカデミーが著作者だ、としか反証しなかったのだ。著作者を本気で争うのなら、裁判所の言うように、制作過程に関する西崎氏の主張を潰す必要があったはずだ。「書いてあったから著作者だ」などという反証は、とても本気の反証ではない。

後のパチンコ裁判では、裁判所こそがそのような理由を使う。しかしこの時点では、この裁判と平行して係属していた、「その2」で取り上げた著作者裁判を無視できない。タイムラインにまとめてみた。


PSソフト裁判と著作者裁判は、僅か1ヶ月程の時間差で始まり、共に、同じ著作物の著作者人格権侵害が争われていたのだ。

両方の当事者であった西崎氏の代理人弁護士は、どちらも共通の面子の6名だし、PSソフト裁判のバンダイビジュアルの代理人弁護士は、著作者裁判の松本氏の復代理人弁護士を務めている。しかも、同じ東京地裁民事第29部であり、裁判官は3名中の2名が重複し、その一人は両訴訟に裁判長裁判官として関わった飯村敏明氏だった。

これだけ重複していながら、同じ争点を含む訴訟を別々に争い、別々に和解し、他方の和解内容に一方の当事者が苦言を呈するような状況とは、一体なんだ?

二当事者間で係属している訴訟に、第三者が新たに共同訴訟人として参加する、主観的追加的併合という方法がある。しかし、これは最判(昭和62年7月17日)が否定しているので、難しい。それでも、問題の早期解決を本当に望むのであれば、主観的追加的民訴法152条によって、弁論併合の申し出でを促し、裁判は一つにされても良かった。裁判官は、訴訟経済を無視した当事者らの茶番を、どう思っていたのだろうか。

「反証を全く行なっていない」などと括弧書きしたのも、皮肉かもしれない。何しろ、仮に東北新社らの反証が認められてしまえば、間違いなく2つの裁判は矛盾してしまう状況だったのだ。併合もせずに別々に争いながら、手抜きな反証を見せられたら、裁判官だって「何やってんの、あんたら?」と言いたいところだろう。

もしもPSソフト裁判で東北新社らの反証が認められ、ウエストケープ及びオフィスアカデミーが著作者となり、著作者裁判では西崎氏が著作者と認められていたなら、民事訴訟法的には全く問題なく、矛盾した事実認定に基づいた判決が、同じ裁判官から出るところであった。松本氏が著作者と認められていた場合も同様であることは、後述する。

せっかく矛盾しない判決がなされたが、共に控訴審段階で和解に至り、飯村裁判官の苦労?も無に帰するのだが、その結果が後のパチンコ裁判で影響することなど、因果応報である。


ここで、東北新社の真意を想像するのに、西崎氏が著作者人格権侵害を訴える元になった著作物の、PSソフトの表記を確認してみよう。
>(C)松本零士/東北新社・バイダイビジュアル
何故か松本氏の名前が...

もしもこれが、
>(C)東北新社・バイダイビジュアル
であったなら、西崎氏の気持ちも違っただろう。

当時の東北新社は、松本氏を著作者の一人と真に信じていた可能性もあるようだ。以下は、本エントリー「その1」にいただいたコメントから訪問した、「9の部屋」さんのサイトだ。
http://www.newyamato.com/main3.htm
http://www.newyamato.com/main3_tfcem.htm

(C)表記自体は、無方式主義のベルヌ条約加盟国である日本では、そもそも法的な意味はない。そんなことを書かずとも著作権は保護されるのであって、(C)表記をするのは、それに意味があるという誤解に基づく単なる慣行である場合が多い。(万国著作権条約のみに加盟する無方式主義の国(かつてのアメリカ)で著作物を保護する場合には、意味がある。)

別に、松本氏が著作者であろうと、映画製作に参加している以上著作権は映画製作者に帰属している。誰であろうと、著作者人格権侵害などと騒がないでくれれば良い。しかし、松本氏のみが著作者で、西崎氏もウエストケープもオフィスアカデミーも著作者でないとなると、西崎氏との著作権譲渡契約の記載に反してしまい、よろしくない。東北新社としては、ウエストケープとオフィスアカデミーという法人も著作者であって欲しいが、その為には、西崎氏が著作者的に関わり、それが職務著作として法人に帰属している必要がある。ところが松本氏は、"自身のみ"が著作者だと言い出してしまった。

この矛盾が、主観的追加的弁論併合をされなかった理由の一つではないだろうか。収拾がつかない。収拾をつけるということは、松本氏と完全に敵対することを意味するが、まだこの段階ではその気もない。東北新社としては

著作者:ウエストケープ及びオフィスアカデミー(+松本氏)
著作権:西崎氏から、東北新社へ譲渡

としたいが、PSソフト裁判と著作者裁判からは、どう頑張っても合一的にこの結論は導けない。

東北新社がそんな状況に置かれたのは、遡れば、西崎氏から東北新社への著作権譲渡契約の記載が不適切だったからに他ならない。(西崎氏が著作権者でありながら、法人が著作者であるという記述があり、その関係が生じるには、法人から著作権が西崎氏個人に譲渡されたこと以外にない。しかし、著作権を法人が個人に譲渡することなど、何か特段の事情でもなければあり得ない話だ。にも関わらず、その西崎氏個人から著作権譲渡を受けたことで、後のパチンコ裁判一審での敗訴につながる。)

さて、前置きが長くなったが、PSソフト裁判の和解を見てみよう。
●和解2:平成16年5月28日 PSソフト裁判 訴訟上の和解
http://web.archive.org/web/20070515052223/http://www.enagio.com/release/old.html#040712
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「宇宙戦艦ヤマト・復活篇」発進 2004.7.12
かねてより、「宇宙戦艦ヤマト」のゲームに関する著作者人格権問題で、係争状態にりました西崎義展(本名:弘文)(株)東北新社、(株)バンダイ、バンダイビジュアル(株)の三社は、5月28日、 東京高等裁判所民事法廷において西崎義展の控訴取り下げによる和解が成立しました。
この和解調書の中で、西崎義展が「宇宙戦艦ヤマト」の著作者である旨を公表しても反意を唱えない事が確認され、三社は了承しました。
 
これにより、西崎義展が新作の制作を 全面的に委託している(株)エナジオは、劇場用アニメ「新宇宙戦艦ヤマト 復活篇」(仮題)の 制作について、「宇宙戦艦ヤマト」の著作権者である(株)東北新社と協議に入りました。
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この和解については、上記の西崎氏側の発表しか情報源がない。東北新社側は、和解について何も発表しなかったようだ。これを、裁判外の和解だと評しているブログを散見するが、その根拠は不明だ。

・法廷で
・控訴取り下げ
・和解調書が存在

ただ、これは矛盾も感じる。控訴した西崎氏が控訴を取り下げたなら、単に一審確定で西崎氏敗訴なので、和解ではないように思える。しかし、法廷で和解が成立し、和解調書が作成されている以上、訴訟上の和解であることは間違いない。実務は、和解を広く認めているであろうから、控訴取下げを条件とした訴訟上の和解というのも可能であるかもしれない。しかし、論理的に民訴法に反しない解釈としては、訴えの取り下げを控訴取り下げと混同して発表したのかもしれない。

和解条件として判明しているのは、「西崎義展が「宇宙戦艦ヤマト」の著作者である旨を公表しても反意を唱えない」ことのみで、「新宇宙戦艦ヤマト 復活篇」に関する東北新社との何らかの約束を得たであろうことは推測するしかない。そのためには、前後の動きが重要だろう。

「その2」に書いた通り、著作者裁判での西崎氏と松本氏の「和解1」の内容は、東北新社にとって想定外であったことが伺える。そして、PSソフト裁判一審では完全に苦境に陥っていたはずの西崎氏の立場が、著作者裁判の「和解1」で蘇った。松本氏側は、「和解1」に則り、宇宙戦艦ヤマトとは別物作品として、OVA「大ヤマト零号」のDVD発売を開始する。DVD第一巻の発売が3月31日、第二巻が5月10日と続き、5月28日にPSソフト裁判は和解(和解2)する。そして6月、三共ら松本氏側を相手取ったパチンコ裁判を、東北新社は提起したのだ。

東北新社は、和解1の前は松本氏に宇宙戦艦ヤマトの続編を作らせようとしてきた。しかし、和解1の後は、完全にコントロールの利かななくなった松本氏を、間接的に牽制する必要性を感じ始めた。ベンチャーソフトなどと組んで「大ヤマト零号」なぞ作ってしまう松本氏よりも、どうせ獄中でろくな活動ができない西崎氏に、著作者だと公表するくらい許してやる方が、遥かにマシだ。しかも西崎氏は、正当なヤマトの続編しか作る気が無い。元々、著作者人格権侵害などと言ってこなければ、西崎氏と争うべき理由などなかったはずだ...

そして、7月12日のエナジオのニュースリリース後の動きは以下だ。
7月20日:2006年の復活編公開が、新聞メディア等で取り上げられる。
http://www.zakzak.co.jp/gei/2004_07/g2004072003.html
http://web.archive.org/web/20040720055515/http://www.asahi.com/culture/update/0720/003.html
7月24日:蚊帳の外におかれることが正しいのに、松本氏にコメントを求めた、事情を知らない間抜けな記事が出る。
http://www.zakzak.co.jp/gei/2004_07/g2004072406.html
7月26日:松本氏が復活編に無関係であることが正しい証拠ととして、1年前の「和解1」の全てをエナジオが公表。
http://web.archive.org/web/20070515052223/http://www.enagio.com/release/old.html#040726


西崎氏としても、和解に価値があった。PSソフト裁判一審判決からは、自分が復活編を製作できる勝算は低い。しかも、最初の覚醒剤事件の刑期は満了したが、その後の銃刀法違反事件の上告が棄却され、5年6ヶ月の実刑が確定してしまった。獄中からできることは限られるし、(C)表記から松本氏の名前が消えるなら、PSソフト裁判で著作者人格権侵害を争い続ける意義も減少した。東北新社は、復活編について協議してくれるというし、松本氏に許したことと、三共らの作ったパチンコ遊技機の実際は、かなりかけ離れ、和解1に反する内容にもなっているようだから、パチンコ裁判を提起するなら敵ではない。

おいおい、歌が、まんま、宇宙戦艦ヤマト言うとるやんけ!

後は、東北新社がパチンコ裁判で請求認容判決を得るのを待って、復活編を...のはずだったろうか。ところが2006年、東北新社は三共らに負けてしまったのだ...


その1
その3
その4

ヤマト関連訴訟という場合、重要なのは4つあり、更に著作権に関する物となると3つある。そして、その3つ全てが、一審の終局判決後、控訴審段階で和解が成立している。2つ1つは裁判外の和解、1つ2つは訴訟上の和解だ。
http://members.at.infoseek.co.jp/just1bit/yamato/rights/history.html
上記サイトで、PSソフト裁判、著作者裁判、パチンコ裁判と表現されているものだ。

訴訟提起の順番としては、PSソフト裁判、著作者裁判、パチンコ裁判なのだが、和解の順番としては、著作者裁判、PSソフト裁判、パチンコ裁判だったので、まずは著作者裁判の和解から取り上げる。

★和解1:平成15年7月29日 訴えの取下げによる裁判外の和解★
著作者人格権の所在、つまりは著作者は誰かを争った、松本原告v.s.西崎被告の一審判決(東京地判平成14年3月25日)は、西崎氏の完全勝利だった。「映画の著作物」たる一連の8作品(最初のTVシリーズから、劇場版の完結編まで)のモダンオーサーは西崎氏であることが、詳細な事実認定から明らかにされた。この裁判は、現著作権法16条(映画の著作物の著作者)の適用による事例判断をした初めての事案として、著作権法の世界では有名な事件だ。松本氏は控訴した。

ところが翌年、完全勝利だった西崎氏が譲歩する内容で、裁判外での和解が成立した。これによって、訴訟係属そのものが遡及的に消滅した。民事訴訟法292条(控訴の取下げ)が準用する262条(訴えの取下げの効果)によって、取り下げられた訴えは、最初から係属していなかったものとみなされる。一審判決は、ヤマトの実際の権利関係とは離れて、純粋に著作権法を学ぶための事例としてしか、意味を持たなくなったのだ。しかし、一審の終局判決の後に訴えを取り下げた者は、もう同じ訴えを提起できない。再審の禁止(民訴法262条2項)という効果のみが、当事者に残った。

なお、何をもって同じ訴えと見るかは、実は法的には厄介な問題ではある。訴訟物が同一であれば、原則として同一の訴えとみなされるが、後訴の提起時に訴えの提起を必要とする合理的事情が存在すれば、同一の訴えとはみなされない(最判昭和52年7月19日、百選(3版)99事件)。よって必ずしも、この問題が再審できないわけではない、とだけ付言しておく。

この和解内容については、一時期その全文が、西崎氏の息子が代表取締役を務めるエナジオのホームページで公表されていたが、現在は削除されてしまっているようだ。しかし、Internet Archiveには、残っていた。
当時のニュースリリースページ
和解書PDF
確認書PDF

ぼかされているのは、氏名・住所などの部分だろう。また、和解書における「別件映画」とは、過去の宇宙戦艦ヤマトの8作品(TVシリーズから、劇場版の完結編まで)のことであろう。

この和解には、西崎、松本両名以外に、株式会社ベンチャーソフトという会社が加わっているので、少し触れておく。この会社は、平成11年7月23日設立の株式会社レイジ・マツモト・アソシエイツが、同年12月14日に商号変更して生まれ、平成12年1月の松本氏の誕生パーティと共に設立発表されている。
http://homepage1.nifty.com/akk-yihitk/reishi.htm
http://yasai.2ch.net/venture/kako/987/987922146.html
(香ばしい...少し懐かしい部分も(苦笑))
翌平成13年、江守商事と共に、ヴィームを設立(平成16年11月解散)。
http://www.emori.co.jp/ir/enpri_report_46/03.html
そして、平成17年12月1日にはアニメーションソフトと商号変更し、翌18年6月19日解散した。

この解散の煽りを食らったのが、OVA「大YAMATO零号」だ。

その後、紆余曲折あって、やっとDVD-BOXが発売されたが、一般市場向けには、なんと昨年10月24日に発売されたばかりだ。時期的に、東北新社のパチンコ裁判の和解を前提にしていたことは間違いないだろう。
http://www.daiyamato-box.com/

つまり、和解書に出てくる「大銀河シリーズ 大ヤマト編」という松本氏側のヤマトは、結果的に「大YAMATO零号」となった。しかし、ベンチャーソフトが作ろうとしていたのは、本当は別のヤマトだった。
http://web.archive.org/web/20020206062040/http://www.venturesoft.co.jp/news/newsrelease/2002/y20020125-1.htm

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%AE%87%E5%AE%99%E6%88%A6%E8%89%A6%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%88

何故、松本氏が小学館で連載していた「新宇宙戦艦ヤマト(グレートヤマト)」ではなく、「大YAMATO零号」になったのかは、和解書の第5項を読めば分かる。松本氏&ベンチャーソフトは、過去の宇宙戦艦ヤマトと無関係な作品しか、西崎氏に製作を許されなかったのだ。だから、過去のヤマトと無関係な新作として、「大YAMATO零号」を作った。

しかし、この和解の遥か前の平成11年1月25日、松本氏は東北新社との間で、「宇宙戦艦ヤマト等に関する合意書」を交わしていることが、パチンコ裁判の中で判明している。
合意書の4条には、以下の記述がある。(甲=松本氏、乙=東北新社)
--
1項
「甲は,乙の対象作品に関する上記の権利の行使が円滑に行われるように,全面的に協力する。」
2項
「乙は,甲がヤマト作品に関連する新作の企画を希望する場合,これに全面的に協力する。ただし,甲は,乙に対し事前に企画内容の詳細を通知し,説明する。」
--

つまり松本氏は、自らが正当な著作者であったかどうかなど関係なく、著作権者たる東北新社との間で、既に宇宙戦艦ヤマトの二次的著作物たる「新宇宙戦艦ヤマト」を作る際の、何らかの協力関係を築いていたのだ。この合意の4日前、平成11年1月21日に、西崎氏の覚醒剤事件の控訴が棄却されている。ベンチャーソフトは、正にその合意のできた年に設立された会社であり、レイジ・マツモト・アソシエイツは設立1ヵ月後に、松本氏と、「新宇宙戦艦ヤマト」の映像化等の契約を締結している。

西崎氏の有罪が確実となった時点で、著作権者たる東北新社は、松本氏と組む選択をしたのだろう。ダークなイメージの西崎氏ではなく、松本氏が著作者である方が、新作の宣伝には適している。つまり、西崎氏は、東北新社から切り捨てられたのではないか?

遡れば、平成9年12月に、西崎氏は最初の覚醒剤取締法違反で逮捕され、翌10年3月公開の劇場作品「銀河鉄道999エターナル・ファンタジー」に、最後にほんの少しだけ、宇宙戦艦ヤマトそのものが出ていた。(この映画は大外れだったが、デジハリ時代の知り合いが就職先でCGを担当していて、煙のパーティクル表現のレンダリングが重くて重くて大変だと聞かされていたが、案の定、煙というよりエクトプラズム?というような、酷い煙になっていた。)これは、松本氏の意向に沿った作品だが、東映アニメーションの劇場作品にヤマトを出すには、どう考えても、著作権者たる東北新社の許諾を得たはずだ。

つまり、西崎氏のイメージダウンと反比例する形で、イメージの良い松本氏がヤマトの新作を作ることを、著作権者たる東北新社はバックアップしてきた経緯が見て取れる。

にもかかわらず、和解によって、松本氏による宇宙戦艦ヤマトの続編製作の道が封印され、西崎氏による復活編の製作が、逆に合意されてしまったのだ。続編を作って欲しい相手がパチモンを作り、作って欲しくない相手が続編を作るという合意だ。とても著作権者として、納得できる結果ではない。

西崎氏からすれば、松本氏が著作者でないという一審判決が出たところで、実は大した意味がなかった。

http://web.archive.org/web/20020401221821/http://www.venturesoft.co.jp/news/newsrelease/2002/y20020329-1.htm

そんなことと無関係に、著作権者たる東北新社が松本氏に許諾を与えて、続編を作らせようという動きが存在する以上、松本氏が続編を製作できない判決が必要だった。しかし、そんな判決は出るはずがない。すると、一見西崎氏が譲歩したかに見える和解内容が、西崎氏にとっては、一審判決よりもベストな答えだったのだ。

この和解に対して東北新社は、プレスリリースで反論した。

http://web.archive.org/web/20031203222016/http://www.tfc.co.jp/news/030806.html
http://members.at.infoseek.co.jp/just1bit/yamato/rights/recon3.html#tfc
東北新社の複雑な心境が読み取れると言うと、深読みし過ぎだろうか?

字面では西崎・松本両者の作品を同等に否定しているのだが、それに伴う行動は起こしていない。
逆に、松本氏が「大銀河シリーズ 大ヤマト編」を製作することについて、「松本零士氏は、株式会社東北新社から新作製作についての全面的な協力合意を得ております」とのベンチャーソフトのプレスリリースがあるわけだ。
確かに、「大YAMATO零号」のDVDが、販売差止請求されたなどという話は聞いたことがない。

更に言うと、松本氏の漫画は、東北新社の著作物の二次的著作物だ。松本氏がその続編漫画を公表するなら、東北新社の許諾が必要だ。小学館のサイトからは、当時からずっと、「新宇宙戦艦ヤマト(グレートヤマト)」の一部が公衆送信され続けている。まさか、こっそり同人誌を作って、無許諾で公開しているわけではないだろう。
http://ginga999.shogakukan.co.jp/yamato/

東北新社は、松本氏に続編を作らせようと、長らく考えていたのだろう。

-----以下、蛇足的だが、和解書と確認書についてもう少し詳しく見たい人のために、著作権法を16、15、29条の順におさらいしておく。

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16条:映画の著作物の著作者
映画の著作物の著作者は、その映画の著作物において翻案され、又は複製された小説、脚本、音楽その他の著作物の著作者を除き、制作、監督、演出、撮影、美術等を担当してその映画の著作物の全体的形成に創作的に寄与した者とする。ただし、前条の規定の適用がある場合は、この限りでない。
--

映画の著作物とは、絵や音楽などの一般的な著作物とは、著作権法上の扱いが異なる。前者の著作者をモダンオーサー、後者の著作者をクラシカルオーサーと呼び、16条でその分担を明確にしている。映画のように、多人数が創作に関わる著作物では、それら全員を共同著作者としてしまっては、何をするにも全員の許諾を求める必要が生じ、実質上著作物の円滑な運用を阻害する。特に映画は、商業目的に製作される場合を念頭に置いており、権利関係の簡略化の要請が強い。そこで、「全体的形成に創作的に寄与した者」のみを、映画の著作物の著作者に限定した。映画の著作物の元となる、原作小説やら音楽やら、アニメなら原画やら、個々の著作物(複製ないし翻案される原著作物)の著作者(クラシカルオーサー)は、映画の著作物の著作者から除外されたのだ。
しかし、モダンオーサーから除外されても、クラシカルオーサーにとって映画の著作物は、自らの著作物の二次的著作物に該当するので、映画の著作者に認められる著作権(21~28条)と同等の権利を持ってしまう。よって、事前の契約によって、これを制限する特約を盛り込むことが、映画の著作物の円滑な利用には重要となる。

例えば、最初の「宇宙戦艦ヤマト」TVシリーズの次に、これを再編集した最初の劇場版「宇宙戦艦ヤマト」が西崎氏によって公開された。この際、松本氏は劇場版に関わっていないのだが、その大ヒットを知り、公開から一週間後になって、西崎氏に対価の支払いを求めた。そして西崎氏は、これを争わずに1000万円支払った。
当事者達が意識していたかは知らないが、松本氏が、映画の著作物たるTVシリーズのクラシカルオーサーであったなら、その二次的著作物である劇場版に対して、この様な請求をすることが可能なわけだ。現在なら、この様な要求をクラシカルオーサーにさせないため、事前に権利行使を制限する特約を盛り込んだ契約書が交わされるだろう。

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15条1項:職務上作成する著作物の著作者
法人その他使用者(以下この条において「法人等」という。)の発意に基づきその法人等の業務に従事する者が職務上作成する著作物(プログラムの著作物を除く。)で、その法人等が自己の著作の名義の下に公表するものの著作者は、その作成の時における契約、勤務規則その他に別段の定めがない限り、その法人等とする。
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15条1項は、職務著作を規定している。「使用者の発意」「使用者の業務に従事する者」「職務上作成されたもの」「使用者の名義」「契約、勤務規則その他に別段の定め」という要件で、自然人でない法人を著作者とする。これは、単に著作権を法人が得るのと異なり、著作者人格権まで法人が得るので、実際に創作したはずの自然人には何も残らない。

16条でモダンオーサーとなるべき監督やプロデューサーも、所属する映画製作会社の仕事として関わった場合、15条1項で自動的に、著作者としての立場を法人に奪われる(という表現は語弊があるが)。

ところが、フリーランスの監督が、委託されて映画の著作物の製作に参加した場合、15条1項は使えない。そこで出てくるのが、29条1項だ。

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29条1項:映画の著作物の著作権の帰属
映画の著作物(第十五条第一項、次項又は第三項の規定の適用を受けるものを除く。)の著作権は、その著作者が映画製作者に対し当該映画の著作物の製作に参加することを約束しているときは、当該映画製作者に帰属する。
--

映画製作に参加を約束すると、外部の監督でも、著作権だけは映画製作会社に奪われる。残るのは著作者としての著作者人格権のみだが、映画製作に参加する場合の契約書では、著作者人格権の不行使特約が盛り込まれるのが通常だ。つまり、ちゃんと契約書があれば、本来の著作者は何もできない。契約書がなくとも、映画の著作物の著作権は、全て映画製作会社に集まる。映画の著作物とは、これほど特殊な扱いを受ける著作物なのだ。


----では戻って、和解書の第4項と確認書を見てみよう。
和解書第4項は、西崎氏と松本氏の両名はモダンオーサーで、加えて松本氏は、クラシカルオーサーでもあるという内容だ。そして、確認書の第1項で、クラシカルオーサーの著作権行使を制限している。

8作品のうち、公開当時の表記としては、
1「宇宙戦艦ヤマト」TVシリーズ(昭和49年10月6日~50年3月30日)
2「宇宙戦艦ヤマト」劇場版(昭和52年8月6日)
3「さらば宇宙戦艦ヤマト」(昭和53年8月5日)
4「宇宙戦艦ヤマト2」TVシリーズ(昭和53年10月14日~54年4月7日)
5「宇宙戦艦ヤマト・新たなる旅立ち」(昭和54年7月31日)
6「ヤマトよ永遠に」(昭和55年8月2日)
→オフィス・アカデミー
7「宇宙戦艦ヤマトIII」(昭和55年10月11日~56年4月4日)
→東京動画
8「宇宙戦艦ヤマト・完結編35mm」(昭和58年3月19日)
 「宇宙戦艦ヤマト・完結編70mm」(昭和58年11月5日)
→ウエスト・ケープ・コーポレーション
が製作会社のようだが、後の訴訟で提出された東北新社への著作権譲渡契約時の資料では、6・7・8がウエスト・ケープ、1~5がオフィス・アカデミーの著作物を著作者とされていた。異なる理由は知らない。

問題は、西崎氏が映画製作者であったか、法人が映画製作者であったかで、職務著作の帰属が変わってしまう点だ。
オフィス・アカデミーにしても、ウエスト・ケープにしても、西崎氏自身の会社だ(ウエスト=西、ケープ=岬...つまり西崎氏の苗字)。個人と法人が一体的であることが、厄介な問題を生む。

実は、この和解の3ヶ月前に、角川映画著作権確認事件(東京地判平成15年4月23日)というのがあった。
いわゆる角川映画の製作者は、角川春樹氏ではなく、春樹事務所又は角川書店だとされた判決だ。角川春樹氏の主張では、契約書では春樹事務所が映画製作の当事者として記名捺印しているが、同事務所の法人格は形骸化しており、自身と同一であり、契約の主体は実質的に角川春樹個人であるというものだった。しかし裁判所は、法人こそが映画製作者だと判決した。詳細な理由は省くが、気になる人は調べてみると良い。

ヤマトの著作者が誰かという問題も、西崎氏とその個人会社の法人格の問題であり、上記判例は見過ごせないはずだ。しかし、和解書によれば、西崎氏個人がモダンオーサーとされており、映画製作者が自身であったというのが、西崎氏の認識であったことがうかがえる。西崎氏がモダンオーサーであったという前提に立つなら、著作権は当初、西崎氏個人に集中し、その後、法人に譲渡されたかどうかという問題になる。

松本氏は、業務委託を受けている立場なので、モダンオーサーにはなれるが、映画製作者が西崎氏だろうと、法人だろうと、どのみち29条1項で著作権は無いだろう。二人がモダンオーサーである以上、二人から著作者人格権は奪えない。しかし、権利行使を制限することはできる。そこで、西崎氏のみが著作者人格権を行使できるという内容で和解した。


東北新社は平成8年12月20日に、当該著作権を包括的に譲渡された立場だったが、西崎氏個人からなのか、オフィス・アカデミーやウエスト・ケープという法人からの譲渡だったのかが、パチンコ裁判では問題になった。しかし、問題になった原因の一端は、この和解書の記述の曖昧さから、西崎氏の認識にあったのではないかと思えなくもない。

もちろん東北新社のプレスリリースでは、「1996年12月20日に西崎氏本人(氏の関連会社も連帯)から譲渡を受け」という書き方でフォローしている。著作権者の可能性のある者全てが連帯して著作権譲渡した、ということを主張しているのだ。この契約内容も、以下に紹介されている。(素晴らしいですね)
http://members.at.infoseek.co.jp/just1bit/yamato/rights/contract199612.html

ちなみに、この10条はやはり重要に思えるのだが、パチンコ裁判において被告側から主張されたにも関わらず、裁判所の判断には至らなかった。

んーー、長いな...続く...か?

その2
その3
その4

東京国際アニメフェア2009にて、
http://www.tokyoanime.jp/ja/

東北新社によって、宇宙戦艦ヤマトの新作劇場版が、年内公開とアナウンスされた。

http://www.oricon.co.jp/news/confidence/64286/full/
http://animeanime.jp/news/archives/2009/03/post_704.html
http://www.gigazine.net/index.php?/news/comments/20090318_taf2009_yamato/

今年のアニメフェアには、うちの会社は出展していないので、間接的に報道されている事実しか知らないけれど、ヤマトファンの"大きなお友達"には、嬉しい知らせだろう。ところが、ヤマトの著作権を巡る長年の争いを一度でも調べたことがある者なら、決して安心できるような発表ではない。

何故なら、今回の発表された新作のストーリーは、1994年(バンダイビジュアルから発売の宣伝用VHS・LD、「宇宙戦艦ヤマト胎動編 ヤマトわが心の不滅の艦」)から西崎氏が何度も製作しようとしてきた、「復活編」と呼ばれる新作のソレそのものにしか見えないからだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%AE%99%E6%88%A6%E8%89%A6%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%88_%E5%BE%A9%E6%B4%BB%E7%B7%A8

http://www.geocities.jp/space_battle_ship_yamato_200x/yamato.html

http://www.zakzak.co.jp/gei/2004_07/g2004072003.html

http://www.j-cast.com/2006/10/02003179.html

ニコニコには、当時公表された動画まで上がっている。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4171760


ところが、今回の東北新社の発表に関する報道に、西崎氏の名前が無い。しかし、松本氏の名前はある。

単に、報道に抜けているだけなら良いが、過去にこれだけ話題になってきた人物の名前があれば、記者が書き落とすとは思えない。東北新社のホームページを見ても、まだ新作に関するニュースリリースも無いので、これ以上のことが分からない...


さて、この不安を共有してもらう(自分だけ不安なのは悔しい)には、その問題認識の前提となる、事の経緯を知る必要があるだろう。しかし、はっきり言って、ヤマト関連の醜い争いを一から説明すると大変なことになるので、経緯を知らない方は、2006年末の時点までをまとめられているブログや
http://echoo.yubitoma.or.jp/weblog/ClapHand/eid/411972/cid/25910/

以下のサイトをどうぞ。
http://members.at.infoseek.co.jp/just1bit/yamato/rights/history.html


問題は、東北新社が三共などに負けた一審判決:東京地裁平成18年12月27日

http://kanz.jp/hanrei/detail.html?idx=1274

http://kanz.jp/hanrei/detail.html?idx=1275

の後だ。なんと昨年末、この訴訟"も"控訴審途中で和解してしまったわけだ。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/081215/trl0812152023017-n1.htm

http://www.tfc.co.jp/news/detail.php?reg_id=203


しかも、一審で負けた東北新社が、和解金2億5000万円を得るという大逆転の内容に、誰もが驚いたはずだ。



一審判決から後、和解までの間、最初の劇場公開から30周年を迎えたヤマト周辺の動きは活発だった(一審係属中と思われる、TVシリーズ開始から30周年の時と比べて)。

http://lalabitmarket.channel.or.jp/site/feature/yamato_helmet.html

http://lalabitmarket.channel.or.jp/site/feature/deslar_wine.html

DVD-BOXや、関連グッズの発売が続いた。

  平成19年8月     平成20年2月

東北新社の文字もある宣伝ページに、西崎氏のメッセージが写真付きで公開されているのに、松本氏が一切触れられていないのが印象的だった。
http://www.dot-anime.com/tb/yamato/

そして8月、西崎氏自身が、正に今回東北新社の発表しているストーリーと同じ内容で、新作の製作を発表したばかりだったわけだ。
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2008/08/01/13.html

http://eiga.com/buzz/20080804/1

この時点で
>今回は西崎氏曰く「全てがクリアに」なっての再始動だ。

と書かれていたのが気になっていた。和解の結論が予定されていたのだろうか?

しかし、当時の予定では、エナジオが中心となって製作される予定だったわけで、何か西崎氏の想定とは違ったことになっているのではないだろうか?

東北新社の和解は、西崎氏の想定の内か外だったのか、非常に気になる。


実は、ヤマトの著作権問題をややこしくしている理由の一つが、この控訴審段階での和解の繰り返しだ。

和解のもたらした弊害については、次のエントリーとしよう。




ま、著作権情報集中管理機構設立に関わってる人物なので、この人がJASRAC批判に批判的なのは、当たり前ではあるが、ポリシーウォッチのサイトに、以下のコメントを入れた。

--

まさか、両者が関わってルールが決まっていて、長年慣行として続いてきたものなら、無批判に尊重されるべき、などとは考えてないですよね?

新規参入を促すための、著作権等管理事業法に関わったのなら、現状で新規参入が阻害されていることに対して、何かしらの問題意識は持ってらっしゃいますよね?

それでも、公取の行動を批判されるというのなら、理解に苦しみます。
現実に疑問を持っていない、慣行を無批判に尊重されているなら、納得です。
あなたは、JASRACを批判すること自体に否定的なのかもしれませんね。

また、片方だけに命令を出すのが片手落ちだとしても、JASRACはサービスの提供者側なのですから、当たり前です。それとも、利用者側の放送局にも命令を出すべきだったというのですか?
利用者側にまで命令を出さなければならない程までに、両当事者間の癒着が深いというのなら、その方が驚きです。その癒着構造を、文化を盾に正当化してはい けません。それ程、文化たるコンテンツ産業が腐っているのなら、それに対してアクションを起こした公取は、たとえ片手落ちであっても、賞賛こそあれ、批判 されるべきではありません。

あなたの論理では、サービス提供者側に命令を出しても無駄と言えるような、競争の無い談合体質も、文化と言ってしまえば保護され、思考停止です。そ もそも、JASRAC以外の著作権等管理事業者は、要らないことになります。著作権等管理事業法に関わった人物の意見とは、思えません。

また、公取が実務を理解しないで口出ししているというのは、公取を馬鹿にしすぎです。公取と、検察の動きをごっちゃに論じるのも、論理の飛躍でしかありません。その程度の認識しかなくして、霞ヶ関の思惑などと言うのは、かなり的外れです。

私は、著作者側の人間であって、あなたの言う両当事者からは外れている立場ですが、クリエーターの立場からは、公取の行動を賞賛する声ばかりです。

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