こないだのヨーロッパ法史で提出したレポートを上げておく。
ドイツと日本の法典編纂を、歴史法学派を軸に絡めてみた。
字数制限が3000字で、論点3つと言われ、めちゃくちゃ詰め込んだ走り書きのような内容になってしまったのが残念。しかし、ローマ法の重要性がやっと分かったし、古ゲルマン社会の面白さや、手続法の重要性を再確認できて、面白い授業だった。
別件で先週くらいに、法科大学院で、退官する大御所の先生方の最終講義等があったのだけど、学者と実務家の連携によって、判例、法改正に影響を与えていくことの重要性のようなことをどなたもお話されていて、歴史法学派の言い分のようだと感じたのも面白かった。
以下レポート
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一 概説
1814年、「立法と法学に対する現代の使命」において法典編纂に反対したサヴィニーは、歴史法学派の開祖となる。指導原理が発見されていな い、法律学未発達な時代に法典編纂すべきでないと、強く反対した。それが、サヴィニーの手を離れ、19世紀後半のヴィントシャイトの時代の歴史法学派とな ると、ドイツ民法典編纂への積極的な関与を肯定するようになる。この背景には、社会の変化とドイツ法律学の変化、歴史法学派のテーゼに混在した普遍的なも のと変動的なものとが入り乱れている。
そこで、歴史法学派が法典編纂に関与する背景を辿りつつ、応用例としての日本への歴史法学派の貢献に触れ、その正当性の片鱗を示すものとする。
二 歴史法学派と法典編纂
法とは、言語や習俗と同様に、民族とともに生成発展する。法は、慣習法として存在するが、次第に法学によって洗練される。法典編纂とは、民族と ともに生成した法をそのまま採録することであり、既存の法を顧みずに「普遍的な理性法」として法典内容を定めることは、間違いである。歴史と共に法は変化 するのだから、完全無欠の法典など期待するのがおかしい。成文法に頼って全ての法的紛争が解決するわけではなく、法律学が成熟していないのに法典を導入す ることは、実務家の混乱を招く。
これらは、法典編纂に反対したサヴィニーの、歴史法学派の主張である。しかし、一見して分かるように、それぞれは独立して主張することも可能 であり、また、前提条件の変化が、結論を左右するものもある。この自由度が、ロマニステンとゲルマニステンの対立を生み、更には法典編纂への積極的関与を 肯定するようにまでなる理由でもある。しかし、多様性があるからといって、一貫性がないわけではない。法典編纂に賛同したヴィントシャイトは、サヴィニー の否定した行動をとったかに見えて、歴史法学派のテーゼに反しないという。ヤーコプスの理解によれば、「法典を法律学の産物と見ること、そして、法典編纂 の後も法学が法典を形成し続けると解することによってのみ、歴史法学派のテーゼと法典編纂が相容れるものとなりうる」というのだ。ただしそのためには、指 導原理の発見が可能なレベルまで法律学が発達し、かつ、その状態が将来に渡って持続する必要がある。
ところがサヴィニーによれば、法律学が発達した状態の社会には制定法は無用だ。制定法が必要とされる社会とは、法律学が未発達か衰退している 場合であり、そのような状況でまともな法典編纂は不可能だ。つまり、需要が無い時にしか、まともな法典編纂は不可能でり、法典編纂は必要ない。ローマ法を 知る者として、引用法の公布された時代の再来を恐れたかもしれない。法典にしろ学説にしろ、それを読み判断する法曹の力量が過不足なく存在しなければ、絵 に描いた餅である。同じ意味で、徴憑理論が導入された糾問訴訟ですら、司法構成員が素人ではドイツ的糾問訴訟と同じ失敗に終わった可能性も、認識できたで あろう。よって重要なのは、法律学の持続的・有機的な発展状態の維持にあり、同時に理論と実践が乖離してはならない。この結論が、歴史法学派の共通目的で あった。
19世紀後半は、共通目的の部分を実施に移せた時代であった。ヴィントシャイトは逆説的ではあるが、法律学が発達した状態で法典編纂し、その 後も法律学が衰退せずに、法典のメンテナンスを主体的に持続可能であるなら、法典編纂は歴史法学派の共通目的に反しない、と解したのだろう。法典編纂に よって断絶することなく、学説主導が揺るがなければ良い。サヴィニーの時代と異なるのは、法律学の成熟と同時に、法典編纂を社会が必要とした、時代背景の 変化にあった。
三 法典編纂の時代背景
1814年当時は、仮にサヴィニーが法典編纂に反対せずとも、ドイツ同盟では統一民法典の編纂など無理であった。しかし、ヴィントシャイトの時 代になると、ビスマルクの登場とドイツ帝国の誕生により、全く状況が変わっていた。以前の、単なる「ドイツ人」としての一体感の高まりのみの状態と異な り、1870年代になると、帝国の立法権限拡張を目指す憲法改正の議論が活発となる。民法領域での帝国による個別立法の乱発を許すと、各ラントの地方法に 対する帝国法の介入を許すことになる。個別立法で既存の法を変革されてしまうのであれば、歴史法学派のテーゼを生かした法典編纂こそが、伝統的な地方法保 護の防波堤となる。法律学の専門家による法典編纂であれば、「政治的な牙を折られる」と、南ドイツ諸国に期待されたのだ。
議会主導の個別立法による改革とは、正にそれまで歴史法学派が反対してきた法典編纂のあり方でもあり、これを阻止する目的での学説主導の法典 編纂が求められるのであれば、共通目的に反しない。加えて、1850年代に始まったドイツでの産業革命による労働者階級の登場は、社会構造を変化させ、理 論と実践の乖離を否定する立場からは、無視できない状態であった。従来の経済的自由の精神から成るドイツ民法典第一草案に対して、ゲルマニステンのギール ケは、「社会主義的油の一滴」を加えよと批判した。これは、社会的弱者保護の必要性など、社会問題を解決するための道具として、立法が必要であると考えら れるようになっていた時代の変化の現れでもある。共通目的に反しなければ、社会需要に応じて、慣習に囚われない法典編纂すら、歴史法学派は肯定できるよう になっていたのだ。
社会が法典編纂を望む時、歴史法学派も法典編纂を望むのであり、法律学が熟している時、社会は学説主導の法典編纂を望む。社会需要と法律学が車の両輪の如く機能した時、法典編纂はなされたのであった。
四 日本における歴史法学派
明治政府は1870年代、不平等条約改正のために近代法を必要とし、フランス人にフランス法教育を依頼している。この中で、ドイツ的歴史法学派 であったジョルジュ・ブスケの存在が、日本の法律学の成熟に多大な貢献をした。ボアソナードを除き、当時日本にやってくる御雇外国人は、本国では反主流ば かりであったのだが、それが功を奏した。
江藤新平は、自然法学派ではないが、フランス法をそのまま日本に持ち込もうとしていた。これに対しブスケは、歴史法学派の立場から、「フラン ス法は、フランス語を話し、長い歴史の上に出来上がったものであり、日本に持ち込んでも機能しない」と批判した。フランス法が芽吹くような、土壌を作るこ とが必要なのであり、まずは法学校を作れと、司法省に「法律学校見込書」を建白した。これを受けて、司法省明法寮をベースに、司法省仏国法律学科専門学校 が誕生したのである。後に来日する自然法学派のボアソナードは、歴史法学派の功績の上に名声を残したとも言える。また、自然法学派でありながら慣習法を重 視したボアソナードは、全く社会環境の異なる日本では、歴史法学派の正当性を認めざるを得なかったとも言える。
社会的類似性としても、日本の産業革命が1890年代であったことは、民法典施行が1898年であることからも忘れることはできない。不平等 条約の存在をドイツ帝国の立法権拡張とパラレルに見ると、法典編纂を成し得た社会環境のドイツとの類似性と、歴史法学派の実践したテーゼの正当性は、無視 し得ないであろう。
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ドイツと日本の法典編纂を、歴史法学派を軸に絡めてみた。
字数制限が3000字で、論点3つと言われ、めちゃくちゃ詰め込んだ走り書きのような内容になってしまったのが残念。しかし、ローマ法の重要性がやっと分かったし、古ゲルマン社会の面白さや、手続法の重要性を再確認できて、面白い授業だった。
別件で先週くらいに、法科大学院で、退官する大御所の先生方の最終講義等があったのだけど、学者と実務家の連携によって、判例、法改正に影響を与えていくことの重要性のようなことをどなたもお話されていて、歴史法学派の言い分のようだと感じたのも面白かった。
以下レポート
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一 概説
1814年、「立法と法学に対する現代の使命」において法典編纂に反対したサヴィニーは、歴史法学派の開祖となる。指導原理が発見されていな い、法律学未発達な時代に法典編纂すべきでないと、強く反対した。それが、サヴィニーの手を離れ、19世紀後半のヴィントシャイトの時代の歴史法学派とな ると、ドイツ民法典編纂への積極的な関与を肯定するようになる。この背景には、社会の変化とドイツ法律学の変化、歴史法学派のテーゼに混在した普遍的なも のと変動的なものとが入り乱れている。
そこで、歴史法学派が法典編纂に関与する背景を辿りつつ、応用例としての日本への歴史法学派の貢献に触れ、その正当性の片鱗を示すものとする。
二 歴史法学派と法典編纂
法とは、言語や習俗と同様に、民族とともに生成発展する。法は、慣習法として存在するが、次第に法学によって洗練される。法典編纂とは、民族と ともに生成した法をそのまま採録することであり、既存の法を顧みずに「普遍的な理性法」として法典内容を定めることは、間違いである。歴史と共に法は変化 するのだから、完全無欠の法典など期待するのがおかしい。成文法に頼って全ての法的紛争が解決するわけではなく、法律学が成熟していないのに法典を導入す ることは、実務家の混乱を招く。
これらは、法典編纂に反対したサヴィニーの、歴史法学派の主張である。しかし、一見して分かるように、それぞれは独立して主張することも可能 であり、また、前提条件の変化が、結論を左右するものもある。この自由度が、ロマニステンとゲルマニステンの対立を生み、更には法典編纂への積極的関与を 肯定するようにまでなる理由でもある。しかし、多様性があるからといって、一貫性がないわけではない。法典編纂に賛同したヴィントシャイトは、サヴィニー の否定した行動をとったかに見えて、歴史法学派のテーゼに反しないという。ヤーコプスの理解によれば、「法典を法律学の産物と見ること、そして、法典編纂 の後も法学が法典を形成し続けると解することによってのみ、歴史法学派のテーゼと法典編纂が相容れるものとなりうる」というのだ。ただしそのためには、指 導原理の発見が可能なレベルまで法律学が発達し、かつ、その状態が将来に渡って持続する必要がある。
ところがサヴィニーによれば、法律学が発達した状態の社会には制定法は無用だ。制定法が必要とされる社会とは、法律学が未発達か衰退している 場合であり、そのような状況でまともな法典編纂は不可能だ。つまり、需要が無い時にしか、まともな法典編纂は不可能でり、法典編纂は必要ない。ローマ法を 知る者として、引用法の公布された時代の再来を恐れたかもしれない。法典にしろ学説にしろ、それを読み判断する法曹の力量が過不足なく存在しなければ、絵 に描いた餅である。同じ意味で、徴憑理論が導入された糾問訴訟ですら、司法構成員が素人ではドイツ的糾問訴訟と同じ失敗に終わった可能性も、認識できたで あろう。よって重要なのは、法律学の持続的・有機的な発展状態の維持にあり、同時に理論と実践が乖離してはならない。この結論が、歴史法学派の共通目的で あった。
19世紀後半は、共通目的の部分を実施に移せた時代であった。ヴィントシャイトは逆説的ではあるが、法律学が発達した状態で法典編纂し、その 後も法律学が衰退せずに、法典のメンテナンスを主体的に持続可能であるなら、法典編纂は歴史法学派の共通目的に反しない、と解したのだろう。法典編纂に よって断絶することなく、学説主導が揺るがなければ良い。サヴィニーの時代と異なるのは、法律学の成熟と同時に、法典編纂を社会が必要とした、時代背景の 変化にあった。
三 法典編纂の時代背景
1814年当時は、仮にサヴィニーが法典編纂に反対せずとも、ドイツ同盟では統一民法典の編纂など無理であった。しかし、ヴィントシャイトの時 代になると、ビスマルクの登場とドイツ帝国の誕生により、全く状況が変わっていた。以前の、単なる「ドイツ人」としての一体感の高まりのみの状態と異な り、1870年代になると、帝国の立法権限拡張を目指す憲法改正の議論が活発となる。民法領域での帝国による個別立法の乱発を許すと、各ラントの地方法に 対する帝国法の介入を許すことになる。個別立法で既存の法を変革されてしまうのであれば、歴史法学派のテーゼを生かした法典編纂こそが、伝統的な地方法保 護の防波堤となる。法律学の専門家による法典編纂であれば、「政治的な牙を折られる」と、南ドイツ諸国に期待されたのだ。
議会主導の個別立法による改革とは、正にそれまで歴史法学派が反対してきた法典編纂のあり方でもあり、これを阻止する目的での学説主導の法典 編纂が求められるのであれば、共通目的に反しない。加えて、1850年代に始まったドイツでの産業革命による労働者階級の登場は、社会構造を変化させ、理 論と実践の乖離を否定する立場からは、無視できない状態であった。従来の経済的自由の精神から成るドイツ民法典第一草案に対して、ゲルマニステンのギール ケは、「社会主義的油の一滴」を加えよと批判した。これは、社会的弱者保護の必要性など、社会問題を解決するための道具として、立法が必要であると考えら れるようになっていた時代の変化の現れでもある。共通目的に反しなければ、社会需要に応じて、慣習に囚われない法典編纂すら、歴史法学派は肯定できるよう になっていたのだ。
社会が法典編纂を望む時、歴史法学派も法典編纂を望むのであり、法律学が熟している時、社会は学説主導の法典編纂を望む。社会需要と法律学が車の両輪の如く機能した時、法典編纂はなされたのであった。
四 日本における歴史法学派
明治政府は1870年代、不平等条約改正のために近代法を必要とし、フランス人にフランス法教育を依頼している。この中で、ドイツ的歴史法学派 であったジョルジュ・ブスケの存在が、日本の法律学の成熟に多大な貢献をした。ボアソナードを除き、当時日本にやってくる御雇外国人は、本国では反主流ば かりであったのだが、それが功を奏した。
江藤新平は、自然法学派ではないが、フランス法をそのまま日本に持ち込もうとしていた。これに対しブスケは、歴史法学派の立場から、「フラン ス法は、フランス語を話し、長い歴史の上に出来上がったものであり、日本に持ち込んでも機能しない」と批判した。フランス法が芽吹くような、土壌を作るこ とが必要なのであり、まずは法学校を作れと、司法省に「法律学校見込書」を建白した。これを受けて、司法省明法寮をベースに、司法省仏国法律学科専門学校 が誕生したのである。後に来日する自然法学派のボアソナードは、歴史法学派の功績の上に名声を残したとも言える。また、自然法学派でありながら慣習法を重 視したボアソナードは、全く社会環境の異なる日本では、歴史法学派の正当性を認めざるを得なかったとも言える。
社会的類似性としても、日本の産業革命が1890年代であったことは、民法典施行が1898年であることからも忘れることはできない。不平等 条約の存在をドイツ帝国の立法権拡張とパラレルに見ると、法典編纂を成し得た社会環境のドイツとの類似性と、歴史法学派の実践したテーゼの正当性は、無視 し得ないであろう。
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