アクセス権とパブリック・フォーラム論の狭間

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■国政モニター
今年度は国政モニターをやっていて、
http://monitor.gov-online.go.jp/html/monitor/
情報通信の放送政策の項目に、以下の「パブリック・アクセスの実現」を要望してみた。
http://monitor.gov-online.go.jp/report/kokusei201304/
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最近、NHKアナウンサーの突然の退職騒動に関連し、公共放送でのパブリック・アクセスに関する議論を目にする機会が増えました。一般市民が、公共メディアで意見表明ないし情報発信する権利の実現というのは、民主主義の根幹に関わるものであり、他国の制度など詳しく知れば知るほど、その重要性を再認識させられます。しかし、我が国のアクセス権一般に関する状況は、新聞への反論権を認めないとした判例(最判昭和62年4月24日)があるくらいで、酷く遅れております。確かに、新聞や民放は私企業ですから、そこにアクセス権実現を国家権力が強制することは困難でしょう。しかし、公共放送たるNHKに対しては、リソースの一部をパブリック・アクセスに配分するよう求めることは比較的容易に思えます。パブリックフォーラム論の、公共放送への応用も可能でしょう。今こそ、パブリック・アクセスの実現に向けた検討をすべき時期なのではないでしょうか。
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ここの意見は、内閣府から関係する府省庁に毎月、行政施策の企画・立案・実施のための参考にするよう送付されることになっている。(実際にどう利用されてるのかはよく分からない。)

本文は400字以下と決まっているので、色々と言いたいことを削って、コンパクトにまとめたつもり。なので、もうちょっと詳しく、我が国におけるアクセス権一般の状況も書いておきたい。


■アクセス権
いわゆるアクセス権(およそ市民が、何らかの形でマスメディアを利用して自己の意見を表明できる権利)は、憲法では表現の自由についての論点となるが、これをマスメディア一般に具体化する法律が仮にできると、違憲となる可能性が高いと言われている。
かつて、サンケイ新聞事件(最判昭和62年4月24日)というのがあり、自民党が共産党を中傷するような広告を掲載したことに対し、共産党が反論文の無料掲載をサンケイ新聞(現・産経新聞)に求め、最高裁に、反論文掲載請求権は認められないとされた。
「この制度が認められるときは、新聞を発行・販売する者にとっては、原記事が正しく、反論文は誤りであると確信している場合でも、あるいは反論文の内容がその編集方針によれば掲載すべきでないものであっても、その掲載を強制されることになり、また、そのために本来ならば他に利用できたはずの紙面を割かなければならなくなる等の負担を強いられるのであって、これらの負担が、批判的記事、ことに公的事項に関する批判的記事の掲載をちゅうちょさせ、憲法の保障する表現の自由を間接的に侵す危険につながるおそれも多分に存する」というのだ。そもそも憲法21条は、私人相互の関係には適用されないし、同条から直接、反論文掲載請求権が生ずるものではない。

しかし、これは昭和48年の出来事だし、判決の昭和62年当時と、インターネットの普及した今とでは、メディアを取り巻く社会状況が大きく変化している。この判例は、現代的によくよく再検討すべきなんじゃないか?と、誰もが考えるだろう。まあ、そういうのは簡単だ。

が、要はこの判決は、新聞社の判断で公的に意義があるとする批判的記事を掲載する場としての存在が、新聞における表現の自由(報道の自由)として重要だと考えているわけだ。そこに、たとえ反論であろうと、裁判所が記事の掲載を強制するのは、国家権力が表現の自由を侵害することにるので、学説もアクセス権には消極的だ。時代が変わったからと、易々と変更される規範ではない。

広告であろうと記事であろうと、それに紙上で反論したいなら、新聞社に金を払って意見広告を出すしかない。金さえあればいいのだが、金がなければ...


■パブリック・フォーラム論
では、資金力の乏しい人は、どうやって表現すべきかとなると、パブリック・フォーラム論というのが出てくる。吉祥寺駅構内ビラ配布事件(最判昭和59年12月18日)における伊藤正巳裁判官補足意見だ。

「ある主張や意見を社会に伝達する自由を保障する場合に、その表現の場を確保することが重要な意味をもっている。特に表現の自由の行使が行動を伴うときには表現のための物理的な場所が必要となってくる。この場所が提供されないときには、多くの意見は受け手に伝達することができないといってもよい。一般公衆が自由に出入りできる場所は、それぞれその本来の利用目的を備えているが、それは同時に、表現のための場として役立つことが少なくない。道路、公園、広場などは、その例である。これを「パブリック・フオーラム」と呼ぶことができよう。このパブリック・フオーラムが表現の場所として用いられるときには、所有権や、本来の利用目的のための管理権に基づく制約を受けざるをえないとしても、その機能にかんがみ、表現の自由の保障を可能な限り配慮する必要があると考えられる。」

つまり、表現活動のために公共的な場所を利用する権利は、その土地の所有権や管理権を妨げることになっても、保障されるべき場合があるという話。
学説は、アクセス権には否定的だが、パブリック・フォーラム論には肯定的だ。何故なら、国家権力が制限する対象が、表現の自由ではないからだろう。


そもそも吉祥寺駅構内ビラ配布事件自体は、駅構内で無断でビラ配布や演説をし、駅の管理者から退去要求されても無視し、不退去罪などに問われたものだ。
判決自体は、「憲法二一条一項は、表現の自由を絶対無制限に保障したものではなく、公共の福祉のため必要かつ合理的な制限を是認するものであって、たとえ思想を外部に発表するための手段であっても、その手段が他人の財産権、管理権を不当に害するごときものは許されない」としており、「財産権・管理権」と「表現の自由」とを「公共の福祉」という天秤にかけ、前者を優先した。
(憲法における「公共の福祉」とは、基本的には具体的な人権と人権の衝突を調整する概念で、後退させられる側の権利行使を「公共の福祉に反する」などと表現する。具体的な個人の権利を、抽象的な社会の利益のために制限するためのキーワードではない。自分もかつて、勉強する前は勘違いしていたが、全体のために個人を犠牲にしろと言うのでは、戦前の全体主義になってしまう。)

伊藤裁判官も、この事案に関しては法廷意見に異論がないとしつつ、「不当に害する」とはどういうことなのか、次のように言及した。
「侵害が不当なものであるかどうかを判断するにあたって、形式的に刑罰法規に該当する行為は直ちに不当な侵害になると解するのは適当ではなく、そこでは、憲法の保障する表現の自由の価値を十分に考慮したうえで、それにもかかわらず表現の自由の行使が不当とされる場合に限って、これを当該刑罰法規によって処罰しても憲法に違反することにならない」

そして、ビラ配布行為そのものの重要性を以下のように説明した。
「一般公衆が自由に出入りすることのできる場所においてビラを配布することによって自己の主張や意見を他人に伝達することは、表現の自由の行使のための手段の一つとして決して軽視することのできない意味をもっている。特に、社会における少数者のもつ意見は、マス・メディアなどを通じてそれが受け手に広く知られるのを期待することは必ずしも容易ではなく、それを他人に伝える最も簡便で有効な手段の一つが、ビラ配布であるといつてよい。」

ではどういう場所なら、その表現手段が不当にならないかというので、前記のパブリック・フォーラム論につながるわけだ。
表現内容を規制する目的ではない、時・所・方法の規制に対し、表現活動の重要性という側からアプローチするお話。形式的判断に対し、実質的な価値を考慮しろと。

これが論文試験なら、表現内容中立規制、時・所・方法の規制の適用違憲を争う場合の、違憲審査基準の厳格さを左右する理由付けとなるだろう。
(最近だと、経産省前でやってる脱原発テントなんかが話題だが、あれは経産省の敷地を無許可で占有しているため、国が土地明渡しを求めて提訴したわけだが、当該敷地をパブリック・フォーラムと捉えると、形式的に不法占拠だからと片付けられる問題ではなくなったりするかもしれない。)

以上のようにパブリック・フォーラム論とは、マイノリティがマス・メディアなどを通じてそれが受け手に広く知られるのを期待することは必ずしも容易ではないことを前提の一つとしてるので、逆に一般市民が公共のメディアで情報発信できる、パブリック・アクセスの可能な社会であるなら、わざわざ他人の財産権や管理権を侵害するような表現活動の重要性は低減する。でもって、そもそも論として、他人の権利を侵害せずに表現の自由が行使できるパブリック・アクセスが実現可能なら、それこそ憲法21条1項の理想とするところと言えよう。

憲法で保障されるべきであった権利が、今までは現実的に実現不可能なために保障されてこなかったという場合、それが状況の変化で容易に実現できるようになったのなら、保障されなければならないだろう。テレビのデジタル化、多チャンネル化により、余っているチャンネルがいくつもあるのだから。


■NHKならでは
アクセス権は、国家権力が民間のリソースを消費する形で表現の自由を侵害するので問題だったわけだが、我が国には一つ、公共のマスメディアたるNHKが存在する。NHKをパブリック・アクセスの受け皿にしようという話なら、国家権力が表現の自由を侵害しない形も可能だろう。余っているチャンネルや時間帯の活用、立法によって受信料の数%をパブリック・アクセスに配分するという手もあろう。(今から思えば、値下げ分をパブリック・アクセスに配分すべきだったかもね。)

つまり、判例の趣旨に反することなく、憲法に適合したパブリック・アクセス権というものが、既に認められるべき時代になったのではないかと思う、今日この頃なのです。


■蛇足
NHKの番組も多種多様なので、大好きな番組も多いのだけど、堀潤の退職や、昨年6月のワールドWaveモーニングからの高橋弘行キャスターの急な降板劇とか、外野から見てると理解不能なことが突然起こる。有能な人材を生かせない(or守れない)組織の腐り具合がプンプンしてるのも確か。そもそも今の会長は、NHK改革のために一昨年選任されたわけだが、JR東海出身のトップにパブリック・アクセスが理解できるか疑わしい。内部で改革を頑張ろうとしてる人達もいるのだろうけど、外圧も間違いなく必須なはずだ。ということで、こないだ堀潤のブロマガ登録した。頑張って欲しい。
http://ch.nicovideo.jp/horijun
財布に余裕のある人には、8bitNewsへの寄付をオススメしたい。
http://8bitnews.asia/wp/?page_id=4965#.UWvgmkq43tt

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このページは、ranpouが2013年4月19日 20:15に書いたブログ記事です。

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