■再び陸前高田へ
先週1週間ほど、また難民支援協会(JAR)の被災地支援ボランティアで陸前高田に行ってきた。
月曜夜:東京出発 → 火曜~日曜:陸前高田で活動 → 月曜早朝:東京戻り
http://www.refugee.or.jp/event/2011/06/13-1127.shtml
震災から半年ということで、そろそろボランティアの足が遠のいているのではないかと思ったのと、これより後は某受験勉強に集中したいので参加できなくなるという事情で、このタイミングで精一杯の1週間の労働力を提供させてもらった。
ところが、陸前高田のボランティアは、実はかなり活況だった。理由は、他所の地域のボランティアセンター(以下「VC」)が閉鎖されたり、個人の参加を締め切ったりで、比較的従来通りボランティアを受け入れている陸前高田に、結果として人が集まってきていたのだ。その結果、週末に合流したメンバーには、各地のVCを転戦している歴戦の勇者的な人が多く、各地の受け入れ状況の問題点など、興味深い話も聞けた。
まあ、それ故の組織的な困難さもあったが、結論から言うと本当に参加して良かった。心からそう感じている。依頼者(被災者)との出会いは当然として、様々なタイプのボランティアメンバーとのソレも、喜怒哀楽に溢れていた。そしてこれは、1週間活動したからこそ実感できたのだとも思う。
こういう言い方はアレだが、元来自分はこの手の場所で人脈作りとか全く興味がなく、終わったらサヨナラな人で、特に人脈作りに来てんじゃねーの?的な人には冷淡なのだけど、今回ばかりは別れを惜しく感じてしまった。
特に、複数の学生からFacebookをやっているかと聞かれたのが意外だったのだが、多くの人とつながることができたのは、素直に嬉しい。
今までは、Facebookの使い勝手が嫌いで、アカウントはむかーしから取ってたけど、ほとんど使わないようにしてきた。しかし、大学生から「おじさんでもFacebookやるんですね」と言われてムキー!となったので、本腰入れることにした!(苦笑)
■6月と9月で変わった点
行く前は、草刈のような仕事が増えていると聞いていた。しかし今回、驚いたのだが、企業を支援することが2回あった。工場が被災した会社で、海水で真っ赤に錆びてしまった資材の錆取りを手伝ったりした。
この会社は海が近く、工場の高い天井まで津波を被っていたが、天井に流木が引っかかったままの状態で、その下で仕事をしていた。そして何と、6ヶ月たった今でも、電気が復旧していなかった。
辛うじて水道は使えたが、電気がないので錆取りに電動の研磨機が使えないのだ。発電機が一台だけあったが、膨大な量の資材に対して、全く足りてなかった。そこで、人海戦術しかないわけだが...
この順でひたすら研磨するよう指示された。ところが、そもそもこれらの道具も数が限られ、ボランティア4名分しかなかった。その日は丁度、我々は男4名女3名と少人数だったので、むしろ丁度良い人数だと喜ばれたが、沢山ボランティアが来ても道具が足りなくて仕事がないわけだ。人海戦術すらできてない。
こんな状況で、ひたすら終わりの見えない作業を続ける社員の方々も凄いなと思ったのだが、作業を教えてくれた方々も解雇されているので、自分たちもボランティアみたいなものですと、笑って教えてくれた。
企業活動を支援するというのは、実はちょっと線引きが難しい。地域によっては、ボランティアの対象外としている。しかし、陸前高田のVCでは認めており、数日の活動では終わりが見えないような膨大な作業に、連日異なるボランティアが関わっているわけだ。自分がどんな作業にマッチングされるかはVC次第なので、個人の被災者のためにお手伝いしたいという意気込みで来ると、場合によっては納得し難い場合もあるかもしれない。
特に、上記のような津波被害をダイレクトに受けた現場ならまだしも、間接的な被害を抱えた会社の支援となると、躊躇する人も少なくないだろう。もう一つの現場がそうだった。
石材を扱う会社で、大きな石材を積んでいたプレートが壊れたり、袋が破れたりして散乱している砂利などを、再び販売するために積み直したり土嚢袋に詰めなおす、ひたすら力仕事の過酷な現場だった。ところがそこは、海から遠く、高台にあった。どう考えても津波被害はない。では、地震被害だろうか?と思いつつ作業していた。が、昼休みに従業員の人に聞いてみたら、地震の被害でもないという。え?
結局、地震・津波の直接の被害はそれ程ではなかったが、震災後しばらく業務が困難だったため、石材を放置せざるを得ず、その結果木製のプレート等が腐り、石材等が崩れてしまったというのだ。つまり、業務が滞ったことによる間接被害なわけだ。
VC側の基準がよく分からないが、もしもこの様な仕事ばかりだったら、ボランティアのモチベーションを維持するのは難しかったかもしれない。
■変わらぬ点
しかし、幸いと言うとおかしいが、そういう仕事の翌日は、以前と同じような個人の被災者のための瓦礫撤去だった。こういう仕事がまだ残っているのは、本当は残念なことなのだろう。しかし、海の近くで流されてしまった家の跡地や畑跡を、全て畑としてやり直したい老夫婦の依頼は、非常にやりがいがあった。
地中に埋まっている瓦礫を撤去したり、生え放題の雑草を根っこから排除する仕事で、1日じゃ半分も終わらず、リーダーがVCに希望して2日続けて作業させてもらった。だから、余計に感情移入してしまった部分もあるかもしれない。
お婆さんは初日、僕らのために南瓜の煮付けを、二日目はオニギリ等を振る舞ってくれた。お爺さんは、見ているだけでは耐えられないようで、僕らと一緒に汗を流した。依頼者はボランティア保険に入ってないのだから、怪我でもしたらマズイわけで、手伝ってもらうのは本当は良くないのではないかとも思ったが、向こうからすれば自分のことを手伝ってもらうのに、傍観はできないのだろう。その気持ちもよく分かった。
まあ、そもそも自分のようなヘタレより、遥かにお爺さんの方が頼もしいのだが(自爆)
一緒に、瓦礫を積んだリアカーを引いたりしながら、色々話をした。非常に優しいお爺さんで、水道すらまともに復旧していない現場で、作業後にろくに手洗いもさせられないことを申し訳ないというので、僕らはVCで洗えるし、帰りに花巻で温泉に入りますからというと、とても安堵したようだった。花巻の温泉は有名だから、是非疲れを癒してくれと。
他のメンバーとも色々話をしていたが、孫のような年齢のボランティアに囲まれ、お爺さんも色々と思うところがあったようだ。帰り際には、敷地の奥で栽培していたプチトマトを大量に(本当に大量w)収穫して、お土産にくれた。そして、バスから見えなくなるまで、深々とお辞儀をして見送ってくれた。涙を拭いながら。
実はこの日、地元の方の涙を目にするのは2回目だった。ボランティア参加者は、毎朝VCでオリエンテーションを受けるのだけど、この日の担当女性は、僕らのバスで説明を始めるなり、かなり泣いてしまったのだ。JARが継続的に支援していることに地元民として感謝していることや、震災当時のことを思い出しつつ話していたら、抑えられなくなってしまったようだった。
オリエンテーションでは、ボランティア作業中に津波の危険があれば、周囲を助けようとせずにとにかく一人で逃げろということを説明するのに、震災当時の辛い話を色々とされることがある。例えば、お婆さんを背負って逃げていた男性が、もうこのままでは逃げられないと、お婆さんに御免ねと謝って降ろして逃げのびた話などだ。地元の方々は、一人でも助かることを望んでおり、他人を助けて共倒れしないで欲しいと、ボランティアに言うのだ。もちろん、担当者によって違いはあるけれど、ボランティアに地元民の思いを理解させるのに、辛い話を毎朝している人もいるわけだ。この日の女性は、震災後家族と連絡が取れなくなった期間の辛い思いを、リアルに思い出してしまったようだった。
最近自分は、歳をとったせいか涙もろいと感じることが多く、この日は涙腺が緩みっぱなしだった。
おまけで、翌日の現場に行く途中、偶然に前日の現場の前をバスが通ったのだが、丁度お爺さんが作業していてバスに気付き、お互いに大きく手を振った。お爺さんは、あの場で黙々と畑仕事をしているわけだ。プチトマトは、その日のお昼に美味しくいただいた。
■ここまでのメンバー
月曜に共に出発したのは、確か日本人10名、外国人5名(内アフリカ系難民1名)で、夏休みな学生率は高かったが、自分同様「現在は働いていない」人が4名ほどおり、肩身は狭くなかった(自爆)
参加者によって、少し短く木曜に帰ってしまう組がおり、金曜は日本人3名、外国人4名に減少し、なんとスペイン人がリーダーとなり、気付いたら第一言語が英語状態になっていたのはなかなかレアな体験だった。
今回の外国人の多くは、上智の大学院等への留学生で、彼ら(Lilian、PatrickそしてリーダーとなったRuben)は過去にもJARのボランティアに参加しており、以下のサイトを立ち上げている。
http://www.311relief.com/
今回の活動については、以下のCeciliaの寄稿部分で取り上げられている。
http://www.311relief.com/index.php?id=20
夜は、リーダーがカルボナーラなスパゲッティを作ってくれるというのでお任せしたところ、適当なチーズが入手できなかったようで、チーズでコッテコテに固まった不思議なカルボナーラを体験した。そして最後は、鍋に大量に余ったソレを、Ceciliaが何故か僕の皿に全て盛り付けてくるもので、ノーサンキューを連呼して逃げた。が、既にテンコ盛りだった(^^;
このカルボナーラ、一人600円というのが少々お高かったが、Rubenが更にチップ1万円と言ったら、ここは日本だからチップの習慣はないねーという外国人達の一斉の反論が面白かった(笑)
その後は、英語で猥談が凄いディープなことになり、日本人3名は置いてけ堀状態(え?自分だけ?w)。ナニな件について日本人はどう思うのかと聞かれてもねぇ(^^;;
そんなボキャブラリーありませんがな!
■後半メンバーとの合流
金曜夜に東京を出て、土日だけ活動する後半組もいて、これが大変多かった。金曜に7人に減少したのが、一気に30人越えの大人数に膨れた。すると、よく戦争ものドラマにありそうな、アレな状況が生じた。古参兵のいる分隊規模の独立愚連隊が、突如新規の小隊に編入され、その指揮に従えと言われて...というアレですよ(苦笑)
最大の問題は、新しいリーダーとサブが、合わせて4人もいたことだったと思う。船頭多くして船山に登る的な状況があった。しかし、色々あったが、幸い男性リーダーに人望があったことで、小隊は瓦解を免れた。同時に、色々あったことで、古参兵同士の連帯感も増したように思う。
こういう問題は、少なからずボランティアにはあるものなのだろうが、一般の会社でもよくあることだ。まあ、だからこそ組織とは面白い(笑)
■市立広田中学校周辺
土曜の現場は、単に広範囲なのと電柱がゴロゴロ転がってた以外は、至って普通な個人の畑の瓦礫撤去だった。コンクリの電柱は重いけれど、なんせ男手は大量にあったので、皆で運べた。後は、掘れば掘るほどキリがないが、時間までできることをやるだけだった。まあ、場所が広田町で、市立広田中学校周辺までバスで来た時は、どこまで行くのかと驚いたが。
問題は、日曜の市立小友中学校周辺だった。こんな現場がまだ残っていたとは...
■市立小友中学校周辺
VCの当初の指示では、側溝の泥欠きと、手が空いていれば畑だかの草刈という程度のもので、あまり状況が分からなかったが大変という認識はなかった。ところが、現場に行って呆然。
地図にある側溝の位置が、実際にどこなのか分からなかった。道路と畑の間に、側溝らしき形跡なんて見当たらない。リーダーが苦労しつつ、目的の側溝に接続しているであろう他の側溝を見つけたところ、つまりは目的の側溝が完全に埋まっていることが分かった。深さ1mくらい?
えええーーー!!!
ここは、依頼者が現場に来てくれない(そういう現場もある)ので、側溝の一端は判明しても、それがどう伸びているのかは想像するしかない。道路に対して直線とは限らない。しかし、判明している側からのみ徐々に掘り進めるのでは、数人しか作業できない。せっかくのマンパワーが無意味になる。そこでリーダーは、つるはしやスコップを持つメンバーをおよその予測で並ばせ、側溝に当たるように各自掘らせた。恐らく、あの時点でベストの指示だったろう。
午前中は、皆ガムシャラに掘っていたと思うが、この地中には板状の大きなアスファルトの塊がワンサカと埋まっており、思うように掘り進められなかった。道路のアスファルトが津波で剥がされ、一人じゃ持ち上げられないようなサイズのまま、側溝の上に覆いかぶさって泥とまみれて層になっていた。そして、これが下手をすると、アスファルトが側溝の底や壁なのではないかと判断を誤らせた。逆に、側溝の壁すら、埋もれたアスファルトと区別がつかない。
大きなアスファルトの場合、その一端が見えても、大半は泥に埋もれている。すると、その見えている一端が邪魔なだけでも、どかすには全体の上にある土を掘らなければならない。アスファルトが分厚すぎて、割ることも難しいのだ。そうして掘ってみたら、また別のアスファルトが重なってたりする。しかも、それだけ苦労して掘っても、その下に側溝があるかどうかは分からない。しかし、掘るしかない。
自分も一応、一時はつるはしで掘ってたのだが、ヘタレなんで(自爆)、つるはしを自分より上手く扱える人に任せ、別の仕事に着手した。側溝の壁探しだ。
分かっている側溝の一端とは、そこが一端であろうこと以外、どこに壁があるのか誰も確認していなかった。それなりに掘れてはいるが、掘った傍から泥水が流れ込み、底も何も見えない。足を踏み入れれば、長靴が埋まってしまう。スコップで掘ろうにも、泥水みたいな場所は、ほとんど掘れない。で、地道に手で泥を確実にすくうことにした。
触感に頼ってみると、スコップじゃ分からなかった泥底の感覚から、目には見えずとも埋まっているものの存在を認識できるようになった。で、被さっていたアスファルトやら謎の鉄板などを引っぺがしたら、やはり泥水で目視はできずとも、やっと側溝の壁が触感で認識できた。
ところが、端からこの側溝の両壁を両手で触りつつ歩いてみたら、既に予測で掘られた溝に対し、壁がクロスしていた。つまり、我々が掘り進めてしまっていたのは、途中までは正しかったが、その先は側溝ではない場所だったわけだ。
何か、見つけてはいけない真実を知ってしまったような、そんな感じ(^^;
みんな、一生懸命掘ってるけど...
ということで、リーダーを呼んで報告したところ、やはり側溝より畑側を掘っているということが確認され、方向転換がアナウンスされた。しかし、結局作業時間修了と相成り、修正は間に合わなかった。後は、後日の別のチームが誤った溝に騙されないように、目印などを立てて終わった。
こりゃ仕方ありませんがな(^^;;
しかし、いまだにこんな、とんでもない未着手の場があることに、最後に驚かされた。
■昼休み
なお、この日の昼食は、市立小友中学校の体育館入口らしき場所でとらせていただいた。
中学校は、2階途中まで津波を被っており、そのままにされていた。
教室の黒板には、様々なメッセージが書かれており、興廃した校舎内との対比が、これまた感じるものがあった。
翌日が卒業式の予定だったんだね。
やはり、涙もろくなった。
■蛇足1
その他、印象に残ったのは、我々のバスの運転手さんだ。一度、前を走っていたバイクが急に曲がり、事故りそうになったのだが、そのバイクの爺さんに、「津波からせっかく生き残った命を粗末にしてはいけない!」と怒っていた。
この運転手さんはハートが熱く、VCでのバスの誘導が不合理だったりすると、喧嘩しそうでヒヤヒヤもさせられた。しかし、7・8カ国もの国籍が入り乱れたメンバーに対し、日本語で臆することなく話しかけて打ち解ける、素晴らしいハートの持ち主だった。
こういう人に偶然当たれたというのは、幸運なんだと思う。
前半で帰ったアフリカ系難民は、ボランティア活動中は暴走するくらいパワーがあって働くのに、活動後に皆で温泉に行く際はタオルも所持しておらず、当初は下着を着たまま風呂に入ろうとしたくらいで、結構周囲のサポートが必要だった。
難民故かは分からないが、準備不足で所持金が底をついたというか、着替えなども足りず、本来は1週間共に活動するはずだったところを木曜に短縮して帰るようにJARに言われて突然帰ってしまったのだが、活動後皆で温泉に行く際に、そんな彼にタオルをくれたのも運転手さんだった。
よくバスの前で立ち話していたが、もしかすると難民と一番フランクなコミュニケーションをしていたのが、運転手さんだったかもしれない(笑)
■蛇足2
キャンプ中の食事なのだが、当初は花巻のスーパーで弁当でも買うつもりでいた。というのも、前回6月の時に、バーベキューやってご飯担当した学生が、自炊経験ゼロで、米を大量に入れて炊いてしまって大失敗したからだ。皆で作るとなると、色々と面倒だなと思っていた。
ところが今回、一人で何人分でも作ってくれてしまうスーパー料理人がおりまして、朝晩美味しいご飯を毎日格安で振る舞ってもらえた。美味しくて、減るはずだった体重が、増えてしまった(自爆)
彼とは、前半組が帰った後、本来なら一人一テントで寝られたところ、一緒に寝ようよとお誘いを受けた(危ないw)
そしたら、何と寝言で、英語でボランティア活動の指示を出していた!
あれは、「スゲー!」と思った。一生忘れない(笑)
彼の料理あってこその連帯感だったとも思う。
■蛇足3
今回出会ったメンバーの大学生は、素直に関心する、とても共感できる、ステキな逸材もいれば、全然超ヘタレなのもいて、そういう一人ひとりが面白かった。
例えば、1週間キャンプ場と被災地を往復し、キャンプ場の汚ねートイレとか慣れちゃって、このまま東京に戻っても、公衆トイレの便座すら汚くて座れないと言っている友達たちと、普通に会話できるだろうか?と、冗談半分に心配してた僕より20歳年下の女子大生とかいた(笑)
彼女は、瓦礫の分別にしてもいい加減な仕事が嫌いで、とにかく黙々と我が信じる道を行く、ヘッポコな命令に反意を示す立派な古参兵だった。
そのくせ、人生の目標的なやりたい事が見つからないとも嘆く。
まるで昔の自分を(以下略
そんなの18歳なら当たり前じゃんか!と、おじさん、おばさん世代は簡単に思うわけだ。
しかし、そこを悩むのが学生にとっての大きな壁であることは、昔を思い出せば理解できる。
まあ、自分のような人生遠回り組みからすれば、道なんて長いほうが楽しいのだけど、こればっかりは人様にゃ安易に勧められない。
でも、こんな過酷なボランティアに1週間も一人で参加しているような人間は、既に正解出してるんだよね。
高城剛的に言えば、「アイデアと移動距離は比例する」わけだ(笑)
答えが見つからなければ、とりあえず動いてみることが正解の一つだったりするさね。
それに気付いているのかどうかは、あえて聞かなかったけど。
対して男子はだ、持参するパンツの枚数計算間違えて、最後の温泉の後、履くパンツがないと悩んでいるのがいた。一度履いたのをその場で洗って、直ぐに乾きますか?って(^^;
洗えば数十分やそこらで乾くわけないのだから、濡れたまま履くなんて有り得ない以上、一度履いたやつでもそのまま履いちゃえよと答えた。ところが、横の友達に聞いて、二人揃ってそれは有り得ないという結論に。一度履いたのを履くくらいなら、履かない方がマシだと言われた。
えーーーー!
そういうもんなの?
つか、それで本当に洗うか迷ってんの?
いざとなったら女子は生き残れそうだけど、この男子たちは...悩むところ間違ってるだろ(爆)
あと、前回6月に参加した際に一緒だった大学生もいて、自分を覚えてくれていたのは素直に嬉しかったかな。
さて、自分も前進せねば。